右に曲がって左に曲がって、また右に曲がると西法寺の「お籠寄せ」です。興正寺門跡の籠を寄せたところですが、当寺の歴史を知るにはネットに頼りましょう。「興正寺」はここから。そして、 「西法寺」はここから。(つまり・・・、分かりやすいのは前に行った富田林御坊は明治9年の興正派分派に従い、浄土真宗興正派として残ったけれど、西法寺は西本願寺の直参になったということ。)
(おかごよせあと)
江戸初期に 、京都西本願寺興正寺の准尊上人によって開かれ、「さの御坊」と呼ばれました。食野家が敷地を寄進し、食野家先祖供養の寺として多大の援助を行いました。境内には樹齢1000年ともいわれる幹回り4メートルの見事なイブキがありました。当日は本堂にはあがりませんでしたが、二十四孝の彫刻や聖徳皇の扁額などのお宝があります。(イブキは本当に素晴らしかった。!!)
寺の屋根瓦は新しいものですが、一番上の棟瓦には「菊水の紋」がはいっています。これは食野家の墓域の中心にあった紋表示と関連があるのかもしれません。食野家の先祖は楠正成の子孫の大饗(おおあえ)氏で、饗の下だけとって食としたと聞いたことがあります。
正面の門を出て、本当の「むか新創業地」はこの辺当たり・・・。と言いながら右そしてまた右に曲がると西法寺西楼門、通称「開かずの門」です。この門はこの先にある食野家専用であることからそう呼ばれたとか。
(妙安寺)
少し行って右に曲がると、泉佐野市立第一小学校。
(昔の泉佐野市立第一小学校、食野家本家跡)
食野、唐金家関係の経営、文化、逸話・伝承等を説明しだしたらきりがありませんが、現在小学校の校門前に有名な松と井戸に関する説明板があります。それによれば佐野の盆踊り「佐野くどき「食野長者物語」」は、この井戸が以前あった場所のまわりで踊られたのが始まりと記されています。
(囃子)イ ッヤー ソイチャエーエエ ソイチャエ (チン チンテンシャン)
ソーリャー トコドッコイショー
大名あまたあるけれど 紀州は五十と五万石
こわいものとてあるまいと ハーコリャサイ
思えばしたり将軍家より こわいお方がござるそな
そりゃまた誰ぞと尋ねたら ハーコリャサイ
和泉の国は佐野の浦 食野長者というお方
そりゃまた何故と聞いたなら ハーコリャサイ
先祖代々不義理して 積り積もった百万両
されば街道素通りゃできぬ ハーコリャサイ (以下略)
食野家跡から孝子越え街道方面に抜ける道沿いに「望楼のある建物」と「佐野最初の鉄筋コンクリート三階建て」の建物が現存しています。米の粉を作る工場で、望楼から沖の船との連絡合図を送ったらしいです。隣の三階建てはこれも米粉工場だったそうです。(撮った写真が見当たりません。申し訳ありません。佐野町場らしいユニークなスポットなのでぜひ見ておいてください。)
(元「朝日湯」、現市教委文化財保護課 建物敷地は元唐金家本家跡)
(元泉陽銀行)
当建物には大正10年に当時のモダン建築として建設移転、ところが昭和2年(1927)に大恐慌が起こって工場閉鎖や倒産が続出、泉陽銀行も努力しましたが昭和7年に破産しました。その後、和泉銀行佐野支店、近畿相互銀行佐野支店となりましたが、最近では商店、接骨院等として今もつかわれています。
(若宮地蔵(子安地蔵))
旧国道㉖を跨ぎ、新地方面にもどってきました。若宮地蔵(子安地蔵)です。寛政3(1791)年の建立と古いものです。初地蔵は1月23・24日、お餅を供えて講中にお下がりを分けます。子安・子育て・水子供養の地蔵さんです。戦前は芸者さんが、戦後はカフェやバーのママさんが技芸上達・商売繁盛を祈願したとか。
以前回ったときには、「見番跡」の建物が残っていましたが、今回の例会ではありませんでした。映画館は「国見館」だった建物が複合商業施設として残っていました。
(新地通り商店街付近の地図)
例会終了後、zenちゃんがお休みだったので、報告せねばと思いながら遅くなって申し訳ありませんでした。しかし、終了後すばらしい資料に出会いました。上図は新修泉佐野市史に掲載されている「新地の商店街 イメージ復元図」です。ご参照ください。
以上報告終了です。
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