(よく見てください下の方に「お多福石」)
春日神社を終えて旧新川家住宅(ふるさと町屋館)に移動途中にある「お多福石」。明治28年に佐野村の人達によって「泉陽銀行」が設立されました。当時初代頭取の山本藤部氏の屋敷に建てられた金庫蔵の石積みに刻まれました。(当時、家や塀の土台になる石積みにはお多福や鶴亀、扇などめでたい刻みを入れるのが流行ったようです。)
(ふるさと町屋館「新川家住宅」)
懐かしい雰囲気の散髪屋さんの角を曲がれば泉佐野市が整備した「ふるさと町屋館 新川家住宅」です。「カギの手平面構造」や「食い違い四間取り」など、佐野の民家の特徴をそなえ建てられてから200年以上たっています。当新川家は「中庄新川家」の分家で、湊村から移り住み醤油屋業を営み、後に呉服・織物などを扱う諸国問屋と小売業を兼ねていました。
倉は壁いっぱいに食野、唐金家をはじめとする「佐野町場」に関する様々な資料が展示されています。かなり大きい倉は時には「新川塾」や「古文書講座」などのミニ講演会にも使われます。NPО法人の泉州佐野にぎわい本舗が運営しており、当日は新川家の一階、二階の隅々、調度、骨董まで詳しく説明してくださいました。誠にありがとうございました。
(陶器ギャラリー)
新川家を出て海岸方向へ、「覚野兵蔵家の倉」を過ぎたら、ステキな陶器ギャラリーがあります。一度覗いてみては。ご主人が焼かれるようです。今日は入らず海岸部に向かいます。
(昭和26年頃の「いろは蔵」、中は「魚市場(×は引き違いで食野の紋)」、下は現在)
通りには食野家をはじめ、唐金家、矢倉家といった廻船業を営んだ蔵が50棟近くあったことから「いろは(48)蔵」といわれており、昭和35年ころは20棟程度残っていたとか。今は散見されるのみですが、住宅、タオル工場、作業場などに転用されています。
(いろは蔵通り近くの「なかせ寄場」にある「力石」)
佐野浦は遠浅のため、大きい船は沖に停泊し、艀(はしけ、小さい船)で沖中士達が積み荷の上げ下ろしのため働きました。「なかせ」の人達が寝泊まり、休憩、船待ちをする施設が「寄場」と言われたのです。沖中士の人達が暇なとき、石を担いで力自慢を競ったのが「力石」です。大きい石で40貫(150キロ)、小さい石で32貫(120キロ)あるらしいです。昔は村相撲が流行ったわけがわかりましいた。
(野出墓地、右側が六観音、左側が六地蔵)
野出墓地には食野、唐金や村相撲の親方の墓碑などがあります。六地蔵、六観音は元禄時代の大きなものです。食野、唐金など商人の墓石はサイコロ型の花こう岩、農家や職人たちの墓は長方形の和泉砂岩、力士などは自然石が多く、戦没者の墓碑、明治以降の大型墓碑など多種、多様な墓碑が約5000基あるといわれています。
(食野、唐金家の墓碑)
当日は参加者全員で「佐野の浦太夫(上方で有名な佐野の浄瑠璃語り名人)」たちが師匠の絹太夫のために建てた墓と、「三界萬霊塔※と刻まれた墓碑」を探してどちらも見つけることができました。
※三界萬霊塔には「この萬霊塔は、天保八年の大飢饉のときに多くの人が餓死したので、その遺族の悲しみは今になっても尽きない。今年は七回忌になるので、供養のために人々が心を合わせて施餓鬼大供養を発願した。」と建立の趣旨が記されています。
(三界萬霊塔)
・城下町は武士を中心として発達した町です。→(例)岸和田
・門前町・寺内町は僧を中心として発達した町です。→(例)貝塚
・在郷町の定義は様々ですが、一般的には「江戸時代に、農村部に成立した商工業集落」とされ、農民・漁民・商人・職人など様々な「庶民が中心」のまち佐野町場にはぴったりです。また、「中心となる施設」が無いことも要件にいれる見方もあります。そういえば岸和田城や願泉寺みたいなランドマークは佐野にはないですよね。野出墓地には在郷町、佐野町場の歴史と文化がつまっているのです。
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