泉南歴史トピックス4 信達市場「唐金新田の謎」にせまる
④「北山理氏」のもう一つの調査研究。そして念ずれば花開く。
(このシリーズは①からお読みください)
「泉佐野の歴史と今を知る会」の北山理氏には本件に関するもう一つの調査研究があります。「佐野点描百景第八集 探訪食野・唐金乃面影 参」(「泉佐野の歴史と今を知る会」資料集九十九集、発行日 平成十七年十一月九日)です。
この中の「信達神社と長慶寺」では「信達神社と長慶寺に宝永四(一七〇七)年、唐金興隆寄進の石灯篭が立つ。この石灯篭の寄進については、大口新田・唐金新田の存在がある。」とあり、これにつづく「泉南市信達の大口新田・唐金新田」では「食野家調査資料」に『注、(長慶寺は)信達町にある真言寺院にして、金熊寺に奉献と同時に行なはる。ちなみに信達町内に新家より六尾への途中、大口新田五町歩・唐金新田壱町歩、佐野の飛地として現存せり。これは唐金家の開発新田にして、移住者の氏神氏寺として金熊神社及び長慶寺を選びたるにより、各宝前に寄進したものと考えられる』とある。」そして
「大口新田の場所については、JR阪和線和泉砂川駅の南の佐田交差点に家があったS・Kさん(原文は実名、筆者が変更)の平成十五年の話によると、和泉砂川駅の東南にあったと教えてくれた。現地に同行していないので、残念ながら場所の確定は出来ていない。Kさんは今年の初めに亡くなられたと聞く。」とされている。
さて、佐田新田は和泉砂川駅の東南ではなく西南にあたる。佐田のS・Kさんが言うのだから佐田が正解で東南は誤記なのだろうか?、私の「大口新田・唐金新田計六町歩」探しが本格的にはじまったのである。大口とはおそらく地名だろう、「大口」とはどこなのだろうか?約2年くらい前からいつも頭の片隅にこの大口探しがインプットされたのです。
「念ずれば花ひらく」
私は、定年退職後に本格的に郷土史研究をやるようになって、この言葉を本当に実感する出来事に何度も遭遇しています。今回のテーマに関しても三度もこれを実感することがありました。
念ずれば花ひらく、その⑴
一回目は、泉南市図書館の二階の郷土史本の書架で別テーマの本をさがしていた時です。「ふるさとを知ろう 泉南市東地区」と題する泉南市立東小学校PTAと東幼稚園PTAが出した郷土史本の表紙が「泉州金熊寺梅渓全図(明治32年)」をベースにつくられており、上記写真に付箋で記した所に「大口」があるではありませんか。分かりづらいですが、六尾から新家方面への途中の三叉に「大口」という表示を発見しました。やはり、S・Kさんの説明のとおり和泉砂川駅の東南方向にあたる場所なのでした。
念ずれば花ひらく、その⑵
二回目は、別の日に同じように泉南市図書館の二階の郷土史本の書架にある「信達紀要」(信達町役場)を読んでいるときです。信達神社の説明に「賓道の入口に「宝永四年五月、唐金梅所寄附」と刻した石縶一基、苔むして建てられてある。梅所寄進の石灯籠は長慶寺にも一基あり、何れも同形のものである。」とし、「唐金梅所は佐野の豪士であり、土地の開墾に努力すると共に詩をよくした。砂川の北方大口新田と称する土地は梅所のところで、その所属は今も佐野町の飛地となっているが・・・」と信達紀要にもよく似た記述があることを発見したのです。
念ずれば花ひらく、その⑶
一年ほど前に、痛い腰と足をおして「関空クラシックゴルフ倶楽部」のメンバーの方とコースをラウンドした際、ゴルフ場内の「佐野池」は「名前のとおり池は佐野らしいでー。」の一言が気になって、まさかと思いながら泉佐野市役所に電話して聞いたところ、何度かたらい回しにはされたものの、最後は固定資産税の担当の方が「泉佐野市土地情報システム」の存在をご教示くださったことにより、まさかと思われる驚愕の事実が判明したのである。
「ゴルフ場の佐野池の池敷とその水路敷、さらにゴルフ場の東側に本市の飛地があります。阪和道の市場橋の下、北と南に細くのびる土地です。(10ヘクタール(10町歩)以上)」というではないか!、職員の方はそれが大口・唐金新田であったことはもちろん知りません。私は以前に泉南市役所や泉南中学校の土地が俵屋新田、国市場の土地で、明治41年までは日根野村の飛地であったことを示しましたが、大口新田五町歩・唐金新田壱町歩、計六町歩の土地は現在においてもなお泉佐野市の飛地なのである。(市販の地図等では表示されていません。)
ということで、「泉佐野市地図情報システム」はこちらから。(「同意する」を押して橙色で囲まれた実線の中の土地が泉佐野市です)
ところで話は戻るが、北山氏の聴き取りに応じた佐田のS・Kさんは、なぜ大口新田・唐金新田の場所をご存知だったのだろうか?、S・Kさん等の屋敷のある一角は、以前は葛畑村字堀河の方たちで、ダム建設で屋敷水没のために集団で移住してくださった通称「堀河村」と呼ばれている場所なのだ。そして、江戸時代は堀河と大口は根来街道の間道として一気通貫でつながっており、以前は新家方面や市場の長慶寺方面に行くには、この道を通ることが通常だった道だったからと思われるのである。(お菊伝承がもし史実ならば、この道を通ったに違いありません)
大阪府全誌、大字市場「字地に唐金新田といえるあり。」の謎はとけました。
私にはまだまだ同様の謎が他にもいくつもあるのです。以上終わり。
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