ー「大高寺と檀家制度の成立の歴史」⑬ー
(このシリーズは①からお読みください)
当シリーズを見てくれた市場の方から質問がありました。その方の家は古くから浄土宗真如寺さんの檀家の方で、「真如寺と今回知った中庄大高寺や牧野浄岸寺との関係が分かれば教えてほしい」とのことでした。結論から言えば、質問にお応えするために必要な史料は今のところ見つかっていないというのが現実です。
ただ、当シリーズ①~⑫をお読みいただいたことを前提に、日本の当時の村と寺院の画期となる重要な歴史のことをご紹介したいと思います。その上に立って、史料実証主義ということからは禁じ手となりますが、今日判っていることをもとに一定の推論を立ててみることは可能です。(あくまで筆者の推論で「歴史」ではありません。そのことをご理解いただいたうえでお読みいただきたいと思います。)
さて、大高寺開基大旦那新川家と長老真誉の紛争(出入)があったとされる寛永16(1639)年頃から、大高寺五世暁誉が新家上村の清明寺を末寺化した寛文6(1666)年頃の前後は、日本の仏教史、もっといえば近世封建制度にとって極めて重要な時期だったのです。
寛永14~15年にかけて肥後国天草郡・肥前国島原郡でキリスト教徒の農民が蜂起した所謂「島原の乱」が発生しました。島原藩と唐津藩の政治は一時ストップしてしまい、ほぼ五か月間はキリシタン農民の天下になってしまったのです。
慶長19(1614)年の高山右近らの国外追放や、元和8(1622)年の長崎での「大殉教」(55名の宣教師等を処刑)などの後でも、一部信者は迫害に屈せず潜伏して、信仰を持続(隠れキリシタン)した者も少なくありませんでした。
幕府は島原の乱後、キリスト教徒を根絶やしにするため、「踏絵」を行わせて転宗させただけではありません。史料として残っている九州小倉(細川)藩の例では「転(ころび)吉利支丹寺請証文」を提出させたことが分かっています。これは①本人の転証文、②村仲間による転んだ証文、③庄屋・村役人による転んだ証文、④寺の住職による転んだことを保証した証文の4枚をセットで提出させるくらい徹底していました。
寛永17(1640)年には幕領に「宗門改役」を置き、寛文4(1664)年には諸藩にも宗門改役を置いて、所謂「宗門改め」が全国的に実施されるようになりました。また仏教寺院の統制は、本山、本寺に末寺を把握させる「本末制度」を実施しつつ、各宗派の本末制度が整った寛文5(1665)年には、仏教寺院僧侶全体に共通の「諸宗寺院法度」を示し、各教団への幕府の統制窓口として「触頭(ふれがしら)」を江戸に設けさせたのです。
このような流れの中で、決定的な役割を果たしたのが、キリシタンではなく、各寺の檀家であることの証明を全国民に義務付けた「寺請証文」の義務付けでした。島原の乱鎮圧の寛永15(1638)年からですが、それまでの日本人は全員が菩提寺をもっていたわけではありません。全国の約六万五千か村それぞれに日本人全員を受け入れる寺があったわけではないのです。
幕府が寺請証文を義務付けたことにより、必ずどこかの寺と檀家の関係を結ぶ必要が生じました。家から近い所にある寺と信仰の有無に関係なく、寺檀関係を結ばないと自分の身分保証をしてもらえなくなりました。嫁・養子に行くときや、奉公に出るとき、遠方に旅をするときは寺の証明(手形)がいるのです。
同一村落に寺が無い場合はやや遠くの寺と寺檀関係を結ぶことになりますが、仏教教団の側にも大きな転機が訪れました。この段階で中世後期から「持仏堂」とか「阿弥陀堂」、「釈迦堂」、「不動堂」、とか称する堂宇が村内にあったものを、寺に昇格させて僧侶を定住させることを行ったのです。季節ごとに訪れる行者を定住させたり、近隣有力寺院の弟子を定住させるとか、在地篤信者で阿弥号や聖号を持つ半僧半俗者を堂宇に住まわせ寺に昇格させるケースも多くみられたそうです。つまり、「寺請証文を作成するための寺」が急ぎ必要となったのです。ある仏教研究者の研究によると、現存する寺院の約70%が寺請証文義務化以降に開創された寺だということです。
幕府はキリシタン禁制を徹底すると同時に、日本人全員の戸口調査を住職の手に委ねます。この寺請証文が集められ、台帳として一村ごとにまとめられたものが所謂「宗旨人別改帳」(戸籍)です。この宗旨人別改帳がほぼ全国で作成されるようになるのが1660年代頃からなのです。その後、毎年書き換えられるようになり、明治3(1870)年まで続きました。
市場の方からの質問に戻りますが、以上のような日本仏教史の上に立ってみていきますと、市場の真如寺は寺の由緒によると明徳元(1390)年に禅宗寺院として建立されたが、天正年間の信長・秀吉の災禍で焼失し、その後浄土宗に改宗されたのち、謙道好愚上人を中興初代として再建。その後更に六世相誉上人の代に六年の歳月をかけて享保9(1724)年に再建されたとされています。また、古くは南北朝時代の文書にも登場する「仏生寺」境内の地蔵堂にあったとされる現市場地蔵堂の仏像は承応四(明暦元(1655))年、真如寺中興謙道好愚上人が寄進したことが分かっており、少なくともこの時点で真如寺は存在していたと考えてよいのではないでしょうか。
信達庄の浄土宗中心寺院だった浄岸寺は、寛永16(1639)年以降本寺不帰依となり、いつからか無住・廃寺となったのですが、紛争があった時点では浄土宗真如寺は未だ存在していなかったのではないでしょうか。そして本シリーズ⑨の向井俊生先生の調査がそのとおりであるならば、この時期にどうしても必要となった寺請証文ニーズの受け皿として中興(創建)されたのが、市場真如寺であり牧野往生院ではなかったかと思えるのです。その意味において、真如寺中興初代謙道好愚上人と浄岸寺に何らかの関係があったかもしれませんが、これらは全く史料に基づく裏付けのない筆者の想像でしかありません。
(地蔵堂の仏像は承応四(明暦元(1655))年、真如寺中興謙道好愚上人が寄進)
