2025/06/23

泉南歴史トピックス6 大高寺と檀家制度成立の歴史 ⑬

  ー「大高寺と檀家制度の成立の歴史」⑬ー

(このシリーズは①からお読みください)

(市場地蔵堂)

 当シリーズを見てくれた市場の方から質問がありました。その方の家は古くから浄土宗真如寺さんの檀家の方で、「真如寺と今回知った中庄大高寺や牧野浄岸寺との関係が分かれば教えてほしい」とのことでした。結論から言えば、質問にお応えするために必要な史料は今のところ見つかっていないというのが現実です。

 ただ、当シリーズ①~⑫をお読みいただいたことを前提に、日本の当時の村と寺院の画期となる重要な歴史のことをご紹介したいと思います。その上に立って、史料実証主義ということからは禁じ手となりますが、今日判っていることをもとに一定の推論を立ててみることは可能です。(あくまで筆者の推論で「歴史」ではありません。そのことをご理解いただいたうえでお読みいただきたいと思います。)

 さて、大高寺開基大旦那新川家と長老真誉の紛争(出入)があったとされる寛永16(1639)年頃から、大高寺五世暁誉が新家上村の清明寺を末寺化した寛文6(1666)年頃の前後は、日本の仏教史、もっといえば近世封建制度にとって極めて重要な時期だったのです。

 寛永14~15年にかけて肥後国天草郡・肥前国島原郡でキリスト教徒の農民が蜂起した所謂「島原の乱」が発生しました。島原藩と唐津藩の政治は一時ストップしてしまい、ほぼ五か月間はキリシタン農民の天下になってしまったのです。

 慶長19(1614)年の高山右近らの国外追放や、元和8(1622)年の長崎での「大殉教」(55名の宣教師等を処刑)などの後でも、一部信者は迫害に屈せず潜伏して、信仰を持続(隠れキリシタン)した者も少なくありませんでした。

 幕府は島原の乱後、キリスト教徒を根絶やしにするため、「踏絵」を行わせて転宗させただけではありません。史料として残っている九州小倉(細川)藩の例では「転(ころび)吉利支丹寺請証文」を提出させたことが分かっています。これは①本人の転証文、②村仲間による転んだ証文、③庄屋・村役人による転んだ証文、④寺の住職による転んだことを保証した証文の4枚をセットで提出させるくらい徹底していました。

 寛永17(1640)年には幕領に「宗門改役」を置き、寛文4(1664)年には諸藩にも宗門改役を置いて、所謂「宗門改め」が全国的に実施されるようになりました。また仏教寺院の統制は、本山、本寺に末寺を把握させる「本末制度」を実施しつつ、各宗派の本末制度が整った寛文5(1665)年には、仏教寺院僧侶全体に共通の「諸宗寺院法度」を示し、各教団への幕府の統制窓口として「触頭(ふれがしら)」を江戸に設けさせたのです。

 このような流れの中で、決定的な役割を果たしたのが、キリシタンではなく、各寺の檀家であることの証明を全国民に義務付けた「寺請証文」の義務付けでした。島原の乱鎮圧の寛永15(1638)年からですが、それまでの日本人は全員が菩提寺をもっていたわけではありません。全国の約六万五千か村それぞれに日本人全員を受け入れる寺があったわけではないのです。

 幕府が寺請証文を義務付けたことにより、必ずどこかの寺と檀家の関係を結ぶ必要が生じました。家から近い所にある寺と信仰の有無に関係なく、寺檀関係を結ばないと自分の身分保証をしてもらえなくなりました。嫁・養子に行くときや、奉公に出るとき、遠方に旅をするときは寺の証明(手形)がいるのです。

 同一村落に寺が無い場合はやや遠くの寺と寺檀関係を結ぶことになりますが、仏教教団の側にも大きな転機が訪れました。この段階で中世後期から「持仏堂」とか「阿弥陀堂」、「釈迦堂」、「不動堂」、とか称する堂宇が村内にあったものを、寺に昇格させて僧侶を定住させることを行ったのです。季節ごとに訪れる行者を定住させたり、近隣有力寺院の弟子を定住させるとか、在地篤信者で阿弥号や聖号を持つ半僧半俗者を堂宇に住まわせ寺に昇格させるケースも多くみられたそうです。つまり、「寺請証文を作成するための寺」が急ぎ必要となったのです。ある仏教研究者の研究によると、現存する寺院の約70%が寺請証文義務化以降に開創された寺だということです。

 幕府はキリシタン禁制を徹底すると同時に、日本人全員の戸口調査を住職の手に委ねます。この寺請証文が集められ、台帳として一村ごとにまとめられたものが所謂「宗旨人別改帳」(戸籍)です。この宗旨人別改帳がほぼ全国で作成されるようになるのが1660年代頃からなのです。その後、毎年書き換えられるようになり、明治3(1870)年まで続きました。


 市場の方からの質問に戻りますが、以上のような日本仏教史の上に立ってみていきますと、市場の真如寺は寺の由緒によると明徳元(1390)年に禅宗寺院として建立されたが、天正年間の信長・秀吉の災禍で焼失し、その後浄土宗に改宗されたのち、謙道好愚上人を中興初代として再建。その後更に六世相誉上人の代に六年の歳月をかけて享保9(1724)年に再建されたとされています。また、古くは南北朝時代の文書にも登場する「仏生寺」境内の地蔵堂にあったとされる現市場地蔵堂の仏像は承応四(明暦元(1655))年、真如寺中興謙道好愚上人が寄進したことが分かっており、少なくともこの時点で真如寺は存在していたと考えてよいのではないでしょうか。

 信達庄の浄土宗中心寺院だった浄岸寺は、寛永16(1639)年以降本寺不帰依となり、いつからか無住・廃寺となったのですが、紛争があった時点では浄土宗真如寺は未だ存在していなかったのではないでしょうか。そして本シリーズ⑨の向井俊生先生の調査がそのとおりであるならば、この時期にどうしても必要となった寺請証文ニーズの受け皿として中興(創建)されたのが、市場真如寺であり牧野往生院ではなかったかと思えるのです。その意味において、真如寺中興初代謙道好愚上人と浄岸寺に何らかの関係があったかもしれませんが、これらは全く史料に基づく裏付けのない筆者の想像でしかありません。

(地蔵堂の仏像は承応四(明暦元(1655))年、真如寺中興謙道好愚上人が寄進)



 

2025/06/20

泉南歴史トピックス6 新家の続者からの要望におこたえします後編 ⑫

 ー「新家の続者からの要望におこたえします 後編」⑫ー

(このシリーズは①からお読みください)


⑪からの続き


(清明寺)

・前身は南北朝時代に開創された新家庄前川(上村)所在の禅宗寺院興禅寺(楠木寺)。興貞禅尼(河内国錦部郡、出自、楠木庶流、「金遣山合戦」で一族滅亡)が亀岡(同庄下村)井出先氏を頼って止住、前川薮内寺(不詳)の空院に閑居し、興禅寺を開基したという。

・興禅寺二世の是雲が佐原直勝(大内義弘家臣)の喜捨を受け、応永7(1400)、仏堂を造立、同15井出先氏からも境内地(南北32間.東西21間余)を寄付された。

・延徳3(1491)根来寺光明新院の子院となって阿学院と改号し、以降、同寺は前川阿学院と称された。

・天正13(1585)3.27根来攻めの動乱で、阿学院坊舎や近隣民家が焼亡した。

・阿闍梨学道(月光院二世良阿覚道大円、謹蓮社保誉の法孫、竜円(三河武割)法弟)、焼け残った阿弥陀堂に寺基を据え、同17.3、坊舎再建の御免を受け、同19~文禄1(1592).2寺坊を再興、日輪山月光院と改め、謹蓮社保誉澄阿を開山とする浄土系寺院とした。なお、この際に浄願院万善和尚(松円山開祖等誉法孫、不詳)の助力があり、その縁故で浄願院末寺(預り寺)となったという。

・大誉祖玄(清明寺(月光院)六世、永禄3(1560)~寛永19(1642)10.6)、慶長17(1612).5の大風雨で荒廃した諸堂を元和9(1623)5.椿谷(新家上村内)へ移転、本堂(四間四方、茅葺)を造営して、翌10.11.8入仏供養を行い、寺号を清明寺と称した。祖玄は元和4(1618)夏に入寺以来25年、上記の業を含む諸功によって中興開祖とされた。

・寛文6(1666)大高寺五世暁誉(難蓮社暁誉生阿)が上村上野原(上之原)で新田開発を行い、田地四筆(二本松・六道堂付近)を清明寺へ寄付した。これを機に、清明寺13世心誉念西は、浄願寺末寺(預り)支配から離れ、正式に大高寺を本寺と定めて、本末格式を整えた。(1.5正月登山:來迎院・勝楽寺・了安寺・元法然寺並み。七月(盆登山):惣末山並み、開山忌:随意、両山・十七カ寺平分寺門中の中座)

・同7.12.20火災で諸堂・相伝什物等が焼失した。

・休三は厳蓮社生誉休三(寛永20(1643)~宝永3(1706).7.10、清明寺16世)。紀州有田郡下村出身、同野上郡(那賀郡野上組沖野々村)法然寺晃国和尚の法弟。貞享2(1685).5. 23に入院、20余年住職を務めた。元禄2~同7の7年間で諸堂を再興し、中興開祖とされた。


(浄福寺)


・「道連地蔵縁起」「宝治寺記」等の古記によると、前身は新家庄奥垣(高野村)に所在した宝治寺(宝治禅寺)と称する禅寺で、開祖は是興禅者という。

・応仁頃、「槙尾弥勒山」(槙尾山施福寺)の支流(末寺)となったが、根来寺結衆が代々住山しており、天台・真言兼学の寺院であったという。

・長享2(1488)頃、浄福院と称し、道連大士を本尊としたと「三谷笹岡之記」にあるという。

・永禄7(1567)頃、同院寺僧恵林が松永(久秀)方に同与、根来寺に反逆したため、元亀2(1571).2.22焼き討ちにあい、堂舎が焼亡して断絶した。

・天正2(1574)、仮の小堂が建立されたが、同13の根来兵乱で焼亡、元和1(1615)には藪垣外へ移転して奥垣・丈武両村の手で常福院堂舎を再興造立し、本尊を住人金五郎の持仏であった釈迦如来像としたという。

・浄福院(常福院)3世恵純が本尊を新たに造立、寛文7(1667).2.20大高寺5世暁誉(難蓮社暁誉生阿)を招き、開眼供養を行い、併せて寺号を慈雲山浄福寺と改めた。これにより、当寺は浄土宗に改宗して大高寺末寺となり、恵純は同寺中興とされた。

・同11、大高寺暁誉が同寺檀家17軒に五重相伝(在家五重)を行い、さらに同8、高野村藪垣外の荒野を開発、田畑2筆(常福寺堂田)を寄付し、本末の結束を強めた。

・玄長は、元禄6(1693)より本堂等の再興を企て、宝永4(1707)2には諸堂が落成、「慈雲山中興」玄長大徳と称された。なお、この時、田畑が永代修造料として寄付されている。

・「天保14泉州日根郡寺社覚」に寺除地198坪とある。


2025/06/19

泉南歴史トピックス6 新家の続者からの要望におこたえします前編 ⑪

 ー「新家の続者からの要望におこたえします 前編」⑪ー

(このシリーズは①からお読みください)

本シリーズは一応⑩までで終了したのですが、新家の続者の方から「新家の「宗福寺」「清明寺」「浄福寺」の歴史が記事ではあまり分からない。」という声をいただきました。本シリーズはあくまで中庄大光寺(これらの寺の本寺)との関係で寺や村に関係したことを記すことを目的としたため、ご意見は当然だと思います。

新家谷の寺と対比する形で、信達庄の方は古い歴史がほとんど分からないと書きましたので、新家谷の古い歴史に期待されるのももっともだと思います。(本当は、ご自身で「日輪山清明寺代々記三谷古記」を読んでいただきたいのですが。・・)

 そんなことから、またまた当シリーズ②で紹介した中庄新川家文書研究会の近藤孝敏先生作成「元禄9年(1696)6月「開基由緒泉州中庄大光寺末寺帳」(「浄土宗寺院由緒書」巻上)にみる大光寺末寺一覧」に掲載されている「11 宗福寺 」「12 清明寺 」「13 浄福寺 」の「備考」に記されている文言の要約をご紹介する形でご要望にお応えすることにいたします。(大サービス)

((惣)宗福寺

・前身は新家庄亀岡(下村)の理岳院蓮乗坊(高野山理岳法師開基、波岡蓮乗寺(不詳)を移転させたと伝わる)という真言宗寺院で、文明15(1483)9には、同寺僧が海会宮寺等の目代に就任、下って永正中頃(1509~17)に至ると、根来寺普照光院末寺(支流)となっていたという。

・天正13(1585)年の根来攻めの動乱で、三谷(新家庄)が「追い武者(返し武者)」のために放火され、理岳院を含む寺坊・地下が焼亡した。

・天正の兵乱で焼亡し、本院が断絶した理岳院空地に、慶長3(1598)、清岸房慶伝(宗福寺開山清誉、井出先氏末孫)が草庵(仮屋)を結び、約30年の間、籠居した。

・寛永3(1626)慶伝が土手岡(中村)の興行堂(興教堂)を「新切り通しの辻」(中村)へ移転させ、興行山惣福寺と称した。

・寛永4慶伝、理岳院を惣福寺へ移転、興行堂用材と合わせて堂舎一宇を造営して、同、8.14寺号を白露山宗福寺と改め、正式に大高寺末の浄土宗寺院として開基した。

・貞享3(1686)。3世秀誉回岩が宗福寺を再興し、大徳 と称された。

・宝暦9(1759)。棟札によって、宗福寺の現本堂が再興されたことがわかる。

・大阪府全志(大正11)では、清月院と院号を示し、佐野上善寺末とあり、当時は大光寺末を離れていた。


●「12清明寺」「13浄福寺」は次回とします。









2025/06/15

泉南歴史トピックス6 「六尾村 正安寺」「馬場村 安養寺」のこと⑩

 ー「六尾村 正安寺」「馬場村 安養寺」のこと⑩ー

(このシリーズは①からお読みください)

 六尾村には現在も浄土宗寺院の「阿弥陀寺」がある。最近は無住になったので葛畑村極楽寺住持が兼帯されている(童子畑村地蔵寺も同様)。近藤孝敏先生の調査によれば、寛永十六年の出入で大高寺末から離れた正安寺が一旦廃絶し、その寺跡に阿弥陀堂を再建、改めて幡代光明寺触下で知恩院直末の浄土宗寺院として再興されたのではとのこと。(天保十四年泉州日根郡寺社覚では堂守が管理する阿弥陀堂として搭 載あり)

  馬場村の安養寺に関しては、私が以前「泉南歴史トピックス2 鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎⑤」で続者に馬場の小字地図資料によって馬場の「高城の宮(高城神社)」があった「字殿垣外」を示したが、当該「字殿垣外」に属する、現馬場老人集会所の右横に「安翔寺跡上地(アンヨウジアトカミチ)」という字表示が示されている。上地(かみち、じょうち)とは、幕府や藩が没収した土地のことなので、かつて当所に寺院があり、除地(じょち・年貢や諸役が免除された土地のこと)であったが、その後いつか上地となったと考えられ、寺号の漢字が違う点はあるものの、近世までは寺と社が近接する例が通常なので、当所が元安養寺跡と考えて差し支えないと思われる。(天保十四年泉州日根郡寺社覚では除地平地825坪とあり、中村(岡中)同様に寺社全体での面積と思われる。

 ただし、今後の課題としては、俵屋新田村の同名の「安養寺」との関係を調査・研究していく必要がある。馬場村、樽井村、牧野村はその村領が俵屋新田として開発されており馬場は「俵屋新田国市場」に隣接している。新修泉佐野市史によれば俵屋の安養寺は慶安四(1651)年に佐野村上善寺末として中興造営されており、法然寺の連続性の問題と同様の点を今後究明していく必要がある。

 以上、寛永十六年の出入り以降、本寺大高寺不帰依という状態になってしまったとされる信達宿周辺四カ寺(牧野村浄岸寺、中村(岡中)法然寺、馬場村安養寺、六尾村正安寺)について見てきたが、この事件が結果としてこれらの村が新しい檀那寺に変わるきっかけとなってしまったわけである。本シリーズを締めくくるについて、寛永十六年にあった新川盛明と長老真誉の紛争の内容について明らかにしておく必要がある。だだし、⑥の冒頭に示したのは開基大旦那側の言い分の史料なので、この内容が全ての原因かどうかはわからない。

 

新川盛明が松井氏岸和田藩の奉行あてに事情説明する書状下書き

盛明が作成した長老の過失や末寺分断の状況を書き上げた箇条書きですが、近藤先生が翻刻してくれている内容をまとめますと、「くじこのミのゆへニて候」「朝暮のごんぎゃう(勤行)をもしかと不被仕候事」「魚鳥寺中へ被入候事」「ろう(牢)人かか(抱)へ置き被申、此ろう人いたつらもの(徒者)ニて候事」「寺のくりの内あらし被申候事」・・・

 やはり盛明が怒るほど僧としては問題行動が多かったようです。寺の庫裏でなにをしていたのでしょうか。近世初期の僧たちをめぐる諸相はどのようなものだったのでしょうか。筆者が一番気になるのはやはりくじこのミのゆへニて候」の点です。「くじ」とは「賭博」のことです。そして「寺銭」という言葉の語源は、江戸時代に寺社を賭博を行う場として選んで、賭博による儲けの一部を寺社に寄進したことからきているといわれています。

最近歴史家として注目をあつめる河合敦氏の考えさせられる「河合敦のコラム」を紹介して本シリーズを終了いたします。


(9/29追加)
・私の新しい知見となる郷土史資料を発見しました。「泉南市の神社・仏閣」(泉南中央ライオンズクラブ 平成9年4月)です。
 当資料の23P、「阿弥陀寺(六尾)」の由緒の記載では、『阿弥陀寺は、寛永元年1624年の開基と印されていますが、無住時代が長く、幡代の光明寺に依存していたとのことです。従って明治初年頃の光明寺の過去帳には、六尾の人の名前も見られるとのことです。今は京都の知恩院の末寺となっております。・・・』と記されています。
 このことから考えられるのは、①1624年六尾正安寺が開基、②六尾正安寺が大光寺出入で末寺を離れ無住化、③②の頃幡代阿弥陀寺が開基、④幡代阿弥陀寺が畠中村長楽寺住持本誉に頼んで「光明寺」となり知恩院直末に、⑤その後、無住化していた六尾正安寺を触下として六尾阿弥陀寺として復活。という流れとなるのではないかと思われます。

 このように見ていくと、六尾正安寺の住持等が大光寺出入り以降、幡代に寺基を移し幡代阿弥陀寺→光明寺となり、後に六尾阿弥陀寺として復活した可能性が高く、幡代・六尾の関係でみると六尾が先と考えることができます。
(当シリーズ⑭の9/29追加記事も併せてお読みください。)






2025/06/14

泉南歴史トピックス6 いよいよ大高寺末寺「牧野村 浄岸寺」のこと⑨

 ーいよいよ大高寺末寺「牧野村 浄岸寺」のこと⑨ー

(このシリーズは①からお読みください)

(上記書状は盛明が信達庄現地から大高寺旦那衆中、及び浄岸寺をはじめとした諸末寺に書き送った書状の下書き)

 新川盛明が大高寺長老追放事件で、直接信達庄にまで赴き村や末寺の動揺を抑えようとしたのですが、やがて信達宿周辺四カ寺(牧野村浄岸寺、中村(岡中)法然寺、馬場村安養寺、六尾村正安寺)は本寺不帰依という状態になってしまいました。信達宿周辺の寺の中で中心的な存在の寺は牧野村浄岸寺だったようです。このことは、信達庄岡田村の「浄泉寺」が「牧野村浄岸寺末(大高寺孫末)」となっていることや、当シリーズ③で記した新家上村の清明寺が大光寺末寺になるまでは、「浄願院(信達牧野にあった)の預り寺になっていた」という代々記95Pの記述からもうかがえることです。

 さて、この浄岸寺についてもかなり以前からの筆者の調査研究の対象なのですが、泉南市史に出てくるわずかな記載しか何も判明していません。私の本家の従姉は現在94歳ですが、婿の義従兄とともに今も田地に出るほど矍鑠としており、牧野の「浄岸寺」のことを聞いたことがありますが、岡中では「ほんみち本殿」のとなり(岡中側)の山(連続丘陵で二こぶになっている)を昔から「じょうがんじ山」と呼んでいると聞いています。この点をはじめとして、牧野の旧家で私がお世話になっているKさん他、いろいろな方に聞いても「浄岸寺」のことはご存知ありません。牧野村は市場村と「小栗街道(熊野街道・紀州街道)」沿いに連続して発達した村なのですが、牧野村の方で市場村の浄土宗「真如寺」の檀家になられている方が多いことくらいしか分からないのです。(K氏も真如寺の檀家とのこと。)

 さて、間違いなく寛永年間まで牧野村にあった「浄岸寺」はどこにあったのでしょうか?。これも私の今後の探求課題ですが、一つだけ有力な手掛かりを見つけました。ひょんなことからその記述に出会いました。それは、泉南市民歴史倶楽部の先輩、山中渓N氏が「泉佐野の歴史と今を知る会会報215~222号」(2005~6年)に連続投稿した論考「長岡王子をさがす」の220号の、牧野村周辺をくまなく現地聴き取り調査した時の記述(220号、10P下段)であり、「真言宗往生院」やその境内社の関係で記したくだりの文言を下記にそのまま紹介します。

「・・・・・天保十四年(一八四三)には鎮守天照大神宮社(神明神社)が、そして、前述の弁才天小社が往生院に存在したことがわかる。なお、浄岸寺はこれ(筆者注、泉州日根郡寺社覚のこと)で見る限り存在していたようであるが、向井俊生さんによると、古文書などの調査の結果、元禄の頃に廃寺となり、当時の檀家が二分し、一方は市場村真如寺(浄土宗)に、他方は当院に属した。その時、浄岸寺の本尊阿弥陀如来などを祀るため、現持仏堂(境内で最大の建物)が建立された。浄岸寺は、前述のT谷邸付近(筆者が変更。原文は実名)に、住吉神社に近接してあったとのこと。」と。

 それにしても、N先輩はすばらしい記録を残してくれたものである。そして、あえて「女性民俗学者」と呼ばせていただく程の業績を残されている向井俊生先生の過去の調査によって、浄岸寺をめぐる謎、牧野村の寺の謎(檀那寺の変遷)のほとんどが、この記録を追調査し、裏をとっていくことによって判明するのである。

※T谷邸付近とは、筆者が小学生の頃通った、旧信達第一小学校の小栗街道側ななめ向かい(和歌山側、現奥野呉服店の和歌山側)であり、住吉社や浄岸寺跡はT谷邸の裏あたりと思われる。(筆者追記)


 



泉南歴史トピックス6 中村(岡中)の法然寺と男里の法然寺について⑧

 ー中村(岡中)の法然寺と男里の法然寺について⑧ー

(このシリーズは①からお読みください)

(男里の法然寺「おのさと第三集」から)
 筆者は郷土史好きで、定年退職前から「泉南市史」は自分で買って読んでいたし、その中で紹介されている「和泉国寺社覚」に中村法然寺は出てくるので、昔に村にあったとされる寺が「法然寺」という名称だったことは早くから知っていた。  

 また、男里に同名の寺があり、中村同様「浄土宗」のお寺なので、「まぼろしの法然寺」と現在もある法然寺に何か関係があるかもしれないと漠然と思ってもいた。しかし、私以外の泉南市民で何人の方が現「男里の法然寺」とは別に中村(岡中)に「法然寺」いう同じ名前の寺があったことを知っているだろうか?。

 いつか本格的に「岡中法然寺」と「男里法然寺」のことを研究したいとは思っていたが、他の研究課題が多く今までほとんど手を付けられずにいたのだった。唯一勉強したのは、泉南市史通史編に出てくる男里の法然寺に関するわずかな記載と、男里の郷土史家、谷美光先生の「おのさと第三集」所収「おのさとの各寺院ー法然寺」53~59Pについてのみである。

 谷美光先生によれば、(男里の)法然寺は華憧山勢至院と号し、龍誉上人の開基と伝えられるが開基年代は不詳、中世中頃ではとなっており、二世以降は不詳で九世天誉上人(慶安五(1652)』年、七十一歳没」)の中興から僅かながら記録が残されているようである。とされ、

・「照蓮社寂誉上人大和尚の位牌法然寺にあり。何世に当たるか不明」

・「法然寺で一番古い墓は寛永八年(1631)という(雄信達村誌稿)」

・「法然寺で一番古い墓は先年大阪府の方が調査にこられた時、高さ六十糎の砂岩製五輪塔で刻み文字も分からないが、三五〇年位前と推測されるとのこと(先住藤田簥然師談)」

・「法然寺の本山は、元禄以来山城国伏見竹田村観音寺であったが、明治十一年総本山知恩院に転末している。この間のいきさつについてはわからないが何でも市場村の真如寺と一緒に転末しているようである」

・「同村宝蓮寺が法然寺の触下にあった」

という点が述べられている。


 さて、以下紹介するのは、当シリーズ②で紹介した中庄新川家文書研究会の近藤孝敏先生作成「元禄9年(1696)6月「開基由緒泉州中庄大光寺末寺帳」(「浄土宗寺院由緒書」巻上)にみる大光寺末寺一覧」に掲載されている「21  法然寺 泉州日根郡(信達庄)中村(泉南市信達岡中)」の「備考」に記されている文言である。

 「中村法然寺に関連して、同じ信達庄内の男里(小野里)村所在の法然寺が注目される。元禄9(1697)「浄土宗寺院由緒書」では知恩院末の山城竹田村観音寺の末寺として書き上げられているが、起立・開基由来は不明とされている。・・・・開基年代は不明ながらも僧龍誉を開山とする(P972)。同庄内近隣で、同じ寺号を有する寺院が無関係であることは考えられず、或いは寛永の出入りで大高寺末から離れた法然寺住持らが寺基を男里に移し、縁故を頼って知恩寺末の竹田村観音寺末寺になったのではなかろうか。」と。

 今回紹介した近藤先生の研究は「私も違いないと考える」といいきれるほどの水準にまで私の今の認識は達していない。それは、谷先生が紹介してくれている「法然寺で一番古い墓は寛永八年(1631)という(雄信達村誌稿)」という記述の問題である。これが、「寛永十八年」ならば中村法然寺と男里法然寺の連続性が整合することになる。さらに、天保十四年泉州日根郡寺社覚には「宝蓮寺」の説明として「浄土宗、本寺、触頭男里村法禅寺、」との記載はあるが、触頭が「法禅寺」となっており、さらに肝心の「法然寺」の搭載がないのである。(泉南市史通史編451Pの「表33各村の寺と社」(天保14年「泉州日根郡寺社覚」より作成)にはなぜか搭載あり)このあたりの謎を今後も追及する必要がある。

 大高寺シリーズの中で「中村(岡中)法然寺」にスポットをあてた機会に紹介しておこうと思い紹介させていただいた次第である。

(6/15追加

天保十四年泉州日根郡寺社覚は「和泉志」(昭和32年2月1日、和泉文化研究会の発行で、和泉国神社寺院史料集の1.和泉国寺社覚の中に「泉州日根郡寺社覚天保十四癸卯年」)として61P~82Pまで収録されているが、男里村はなぜか2度掲載されており、一度目の63Pは「男里村の 法然寺、光平寺、浄泉寺、宝蓮寺、神宮寺」が掲載されているが、二度目の78P「男里村の 浄泉寺、神宮寺」、79P「男里村の 宝蓮寺」が掲載されており、なぜか内容を異にする。

・宝蓮寺の説明としては63Pは「浄土宗本寺同村法禅寺八幡社僧」となっており、79Pは「触頭男里村法禅寺」となっている。2度の説明中では共に寺号は法禅寺となっているが、しかし、二度目の掲載ではなぜか「法然寺?法禅寺?」そのものが搭載されていない。

・男里村が「天領、私領の入り組み支配地」となっていたことが混乱の原因と思料されるが、法然寺の中村→男里の連続性の研究とあわせて、男里村の現法然寺の寺号の歴史的な確認及び泉州日根郡寺社覚の二度記載の問題を探求、確認する必要がある。

2025/06/12

泉南歴史トピックス6 信達庄中村(岡中)の浄土宗法然寺と真言宗林昌寺⑦

 ー信達庄中村(岡中)の浄土宗法然寺と真言宗林昌寺⑦ー

(このシリーズは①からお読みください)

l
(元禄四年未二月十八日寺社御改帳控。下はその読み下し文)

 さて、画像が多くなってしまったが、これは以前にも当ブログでご紹介したことがある、岡中村林昌寺に残る「元禄四年未二月十八日寺社御改帳控」の全文であり、天保九戌年三月松下九右衛門控書を以って当時の住持がこれを書き写したものである。(九右衛門とは、泉南市史史料編に登場する多くの中村(岡中)が関係する文書に、庄屋として登場する中村の累代庄屋家である(今は断絶))。また、文書自身は村の先輩でともに郷土史の探求に取り組み、いつもご指導賜っているH・Y氏に写しをとらせていただいたものである。)

 筆者は定年後、本格的に郷土史をやるには古文書の翻刻、読み下しが必須であることから、これの勉強に挑戦してはいるが、その技量はいっこうに向上しない。当文書だけはと取り組んだが、翻刻・読み下しを一応成し遂げるまでに三か月以上をついやした。しかし内容には全く自信がなく、古文書学を習得した専門家のかたに指導・訂正いただいて何とか完成をみたものである。

 上記文書の内容からは、中村(岡中)の当時の檀那寺、浄土宗法然寺は寛永16年の大高寺の紛争以降、本寺大高寺に不帰依となってしまった後、寛永18年に別途以前からあった地蔵堂をもとに、真言宗無本寺の林昌寺として『中興』することによって、これを村の新しい檀那寺としたことが、明らかとなるのである。

 なお、先輩H・Y氏による林昌寺住持の歴代の調査によって、一世と二世の住持は金熊寺観音院に兼帯願っていたことが判明しており、筆者の義兄が観音院寺役を務めていた関係から調整いただいて、数年前に岡中先輩H・Y氏、同後輩N・K氏、筆者、筆者義兄の四人で観音院前住職から林昌寺一世及び二世住持の位牌を見せていただき、墓(金熊寺墓地にあり)にも案内していただいて、その事実を確認している。

 法然寺の開基は「年号相知れ申さず候、文禄二癸巳(1593)年中奥造営仕り候」としかわかっていない。また、法然寺がいつから無住となったかは正確にはわからないが、寛永16(1639)年の大高寺の紛争を機に、法然寺に代わって林昌寺を村の檀那寺としたのは寛永18(1641)年以降であることがわかるのである。

 信長・秀吉による天正年間の災禍により、壊滅的な打撃を受けたであろう林昌寺(岡寺?)は、寛永期以降徐々に近世寺院としての形を整え、現本堂の建立や四国八十八か所を山中に勧請するなど、近隣諸村からも崇敬される弘法大師信仰の地となるが、一方では中世に属する「補陀落渡海碑」や「庫裏地下の閼伽井(聖水井戸)跡」、平安時代に遡る「寺院瓦窯跡」など、前史としての貴重な歴史的遺物が数多く存在し、今回分った近世の歴史とは別の古い歴史があったことは想像に難くない。その意味では、新家谷のような中世にまで遡った歴史が全く未解明なことを改めて記しておきたい。

(林昌寺)

2025/06/11

泉南歴史トピックス6 寛永十六年にあった大光寺をめぐるある事件⑥

  寛永十六年にあった大光寺をめぐるある事件⑥ー

(このシリーズは①からお読みください)

新川盛明が松井氏岸和田藩の奉行あてに事情説明する書状下書き

 以前筆者は本シリーズ③で、中庄新川家文書研究会の近藤孝敏先生の研究によれば、「ある出来事を機に大高寺の寺勢が大きく衰えた時期がありました。」と記しましたが、これは信達庄の村や末寺にも大きな影響を与えた出来事でした。それは、寛永十六(1639)年の大高寺長老(真誉)と大旦那中庄新川家(新川盛明)の紛争に端を発した事件でした。以前書いた新家谷への教線拡大より20~30年くらい前の話になります。岡部氏が岸和田に入部したのは寛永十七(1640)年ですので、信達庄の村々は松井(松平)岸和田藩領であった時代になります。

 上に示した画像は開基大旦那家の新川盛明(九兵衛、有名な新川盛政の息子、開基大旦那三善(新川)盛喜の孫)が松井(松平)氏岸和田藩の奉行あてに事情説明する書状(の下書文書)ですが、紛争の内容、原因は後程説明するとして、この事件によって新川盛明は長老真誉を大光寺から追放しました。

 この紛争で、大高寺の諸末寺には大きな動揺が走り、もともと長老びいきだった末寺や模様眺めの末寺、開基大旦那家に従う旨を表明する末寺などに分断したようです。追放された長老真誉はその後、木積村観音寺(事件当時は大高寺末)で暮らしたようですが、新川盛明は事件の直後から、諸末寺の現地に赴いたり書状を出すなどして動揺を抑える努力をしたようです。

 下記の四カ寺は、その時長老と行動を共にして、大高寺の末寺から離脱したようです。畠中村称名寺(のち長楽寺)、木積村観音寺、橋本村安楽寺、脇浜村浄雲寺。(その後、これらの四カ寺については、ある段階で帰参の話があったようですが結局は実らなかったようです。)

 また、信達庄の村々に関しては、長老に積極的に加担したということではなかったのですが、新川盛明が直接信達庄に赴き動揺を抑えようとしましたが結局収拾できず、やがて信達宿周辺四カ寺(牧野村浄岸寺、中村(岡中)法然寺、馬場村安養寺、六尾村正安寺)は本寺大高寺不帰依という状態になっていったようです。上記四カ寺のように即座に末寺を退く形はとらず、長老・本寺大旦那方とも距離を置き、次第に末寺から離れたようです。これらについても後の時代に大高寺から関係修復の動きがあったようですが、結局は寺院自体が退転し、檀中こぞって転宗してしまうほどこの事件は後世に影を落とす結果となったようです。(六尾村正安寺は後世に同地、阿弥陀寺という形で幡代光明寺触下で知恩院直末寺院として再興されています。)






2025/06/10

泉南歴史トピックス6 大光寺と信達庄のかかわり⑤

 ー大光寺と信達庄のかかわり⑤ー

(このシリーズは①からお読みください)

(天和年中(1681~83)の岸和田藩領信達庄部分(歴史館いずみさの所蔵))

 さて、日根郡信達庄の中村(現、泉南市信達岡中)にあった浄土宗法然寺のことからはじまった当シリーズ。いよいよ中庄の大光寺(中本寺)と中村法然寺を含む信達庄の村々にあった末寺とのかかわりについて、近年の近藤孝敏先生による「中庄新川家文書」の研究によって判明してきた歴史と、筆者が以前から調査・研究した結果分かってきた歴史をご紹介したいと思います。

 当シリーズで書いてきましたように、新家谷には、新家上村「日輪山清明寺代々記三谷古記」というすばらしい史料があり、大光寺と清明寺をはじめとする新家の寺の歴史は、それより古くからの新家谷の(寺や社の)歴史の中に、きちんと位置付けすることができます。大光寺の末寺化以前は根来寺の教線が新家谷を支配していた、もっと言えば根来(寺)からの進出が本格的な新家三谷の歴史の幕開けだったことがわかるのです。

 では信達庄はといえば 、平安時代は「摂関家領信達荘」が存在していたことは文書で判明していますが、それ以外はなにも分かっていないというのが現実です。室町時代になって足利尊氏が建武四(1337)年に紀伊国伝法院(根来寺)に「信達荘」を寄進していますので、それ以降は徐々に近隣地域(現在の貝塚、佐野、泉南、阪南等)が根来寺の勢力下になっていくのですが、寺の直轄地だったわけですから、仏教の教線という点では「根来寺真言宗」が支配的であったことは容易に想像できます。しかし、南泉州の各地域が同様にそうであるように、天正十三(1585)年の秀吉和泉・紀州攻めによって、村々の寺はほとんどが焼かれており、それ以前の歴史がほとんど分からないという現状にあるのです。

 なぜこのことに最初に触れるのかは、続者の誤解を回避するためです。今から語る歴史それ以前の村々に、新家谷同様の村や寺の歴史があったであろうことは当然考えられるのですが、分かっていないために語れないのだということを理解したうえでお読みいただきたいと思います。例えば私の檀那寺である寺やその他の村の寺にも、それぞれの前史があったこととは思いますが、伝承の域を出ないこと(例えば行基や道昭の創基伝承)をもって「歴史」とは言えないのです。
 



2025/06/05

泉南歴史トピックス6 続・大光寺と新家谷のかかわり④

 ー続・中庄大光寺と新家谷のかかわり④ー

(このシリーズは①からお読みください)

(現在本堂工事中の大光寺)

 今回も、中庄大光寺と新家谷のかかわりの続きですが、谷の中で最も早く中庄大光寺の末寺になったのは、新家中村の宗福寺です。(市史史料編153P、代々記78P)寛永四(1627)年、清岸房は以前の亀岡理岳院を移して興行堂と合わせて一つの寺を興し、八月十四日「白露山宗福寺」と改め、中庄大高寺の末寺になりました。

 理岳院が天正年間に断絶した後、文禄二(1593)年に月光院(清明寺)が再興されたので五か所の村の107軒が月光院(清明寺)を菩提寺にしていましたが、宗福寺の再興に伴って計56軒が宗福寺を菩提寺としました。残りの亀岡(中村)の家々も客檀家になった経緯がしるされています。(一部、計31軒は月光院と宗福寺の檀家を兼ねたわけです。)

 さて、新家谷の各寺がそれぞれ復興され、大光寺の末寺になっていく経過を市史史料、代々記で見てきましたが、私は前回③で大光寺の教線拡大は新田開発など経済力の背景がないと難しいと思うと書きました。清明寺のところで見ましたが五世暁誉上人が開いたとされる新田の全部を清明寺に寄付したわけではありません。新しい田地は地元の小作か、あるいは他から入植させた下人に作らせたということでしょう。その一部を寺の田にして寺の経営にもあてたということではないかと思います。今流の言い方をすれば、大光寺スポンサードの新田開発ビジネスの一環でもあったのかと考えてしまいます。

 それと同じようなことで、よく検討をしないといけない史料があります。市史史料編の185~191Pに紹介されている文書です。(代々記には見当たりません。)
市史史料編では、「山田新五郎田地買得由緒書 寛文四(1664)年十二月五日 山田美貞氏文書」となっていますが、これは中庄村新川八良左衛門が新家谷の先年之庄屋の財産を買い取っていることが伺える文書です。
 売主は新家先年之庄屋 中村 久内(花押)、中村 九太夫(花押)で、それに続いて同所先年ノ年寄 孫左衛門(花押)、・・・と全17名の名前が連署されており、紙数七枚半で50筆を超える田地や久内の屋敷が記されているものです。高にすると51石を超えています。私が分からないのは「山田新五郎田地買得由緒書」であるのに買主がなぜ「中庄村新川八良左衛門」なのでしょうか?。

 さて、この中庄村新川八良左衛門とは、中庄新川家文書研究会の近藤孝敏先生の詳細な研究によれば、大光寺開基大旦那三善(新川)盛喜の曾孫に当たる人です。

盛喜-盛政-盛明-盛重        中庄代官
         市郎左衛門     将軍家御持筒与力直参御家人
         権右衛門      中庄上出村分家
         〇西金(八郎左衛門)※盛重の子の後見役
            ↓   
※(中庄代官代理、八郎左衛門家(湊浦庄屋)初代、佐野新川家(ふるさと町屋館の家)初代の人)。ちなみに、西金(八郎左衛門)等の母は熊取、中左近女で子供たちは中盛吉の孫でもあります。

 山田家は代々記でも記載されるとおり、正保四(1647)年に樫井村から「中村落合垣外江引越シ、此人山田丈右衛門と云、」とあるように、新家山田家の祖先にあたる人ですが、その「山田新五郎田地買得由緒書」に記されるのは、買得したのは上記、新川八郎左衛門西金になっているのです。その詳しい理由は未解明ですが、上記のような開基大旦那家の活動と大光寺暁誉の新田開発、教線伸長が軌を一にしていることは間違いなさそうです。
(泉南市史 史料編)

(6/9追加)
泉州湊浦新屋一統
 盛重(権七)の子の盛喜(五佐衛門)が幼かったために、中庄代官代理を務めた西金(八郎左衛門)は、新川八郎左衛門分家の初代となる人ですが、17世紀中期以降埋め立てにより成立した、中庄湊浦の庄屋を務めます。そして、ちょうど新家中村旧庄屋、久内の財産を買い取った寛文年間(1660~)の初め頃から、中庄村に泉州湊浦を拠点とした「新屋(あたらしや)一統」と呼ばれる廻船集団が勃興してくるのです。
 新屋一統は「食一統」同様に一軒ではなく、湊浦の「里井家」「中家」「新谷家」といわれる家々で構成され、新屋一統として情報共有して廻船業を営んだことが分かってきています。そして、新屋一統が全国の各湊・浦に入津する際の船往来手形は、小堀備中守の累代中庄代官「新川○〇」によって発行されています。このように見ていくと、食野・唐金が廻船業だけでなくそれで得た資金を金融業や新田経営など多彩なビジネスで活かしていく構図と同様なものがみえてきますが、中庄新川家が当該ビジネスに具体にどのように絡んでいったかは今後の研究を待つところです。
 中庄の奈加美神社(旧、大宮大明神)も大光寺開基大旦那の三善(新川)盛喜が造ったといわれていますが、当神社には中庄湊浦、新屋一統が寄進した「北前船」模型が展示されています。)




                 



 

 

2025/06/03

泉南歴史トピックス6 泉南市史と新家古記の世界にみる大光寺③

 ー「泉南市史(通史・史料編)」と「新修新家古記の世界」にみる大光寺ー③

(このシリーズは①からお読みください)

※「新修新家古記の世界」の正式名称→「新修新家古記の世界 日輪山清明寺代々記を通して泉南市新家500年の歴史を現在のことばで読む」(初版発行平成17(2005)年、編集松田秀逸、発行新家歴史研究会、発行責任者松本芳郎)

(「新家古記の世界」は、S61、S62、H3、H8、H17、と改定・出版を重ねて、上記画像のものは5冊目になります。今回引用しているのはこの(最新)本です。)

 本のサブタイトルにもなっている「日輪山月光院清明寺代々記並三谷古記」とは、新家上村清明寺の忍誉上人が明治初年にまとめて書き記した文書群のことですが、この本の特筆すべき点は約500年前に遡り、寺に残る記録文書群(一次史料)に基づき記されているという点です。  

 他市と比べて中世の歴史がほとんど分かっていない泉南市の中で、唯一新家地区の歴史がこれほどまで文書でたどれるのはこの記録のおかげなのです。(関連する記載から近隣地区や紀州根来、その他の歴史もたどれます。)その意味においては泉佐野市の「政基公旅引付」に匹敵する重要文書といってよいと思います。

 前回に書いた、泉南市の村の歴史に大きな影響を与えた事例「1.新家谷編」ですが、まず泉南市史通史編の第2章近世村落の構造と発展、「第三節義民伝承と村方騒動」の327P以降337Pまで、新家村の村方騒動に関する記述がかなり詳細に記されています。

 これに関して史料編でも関連史料が紹介されていますが、「新家古記の世界」にもそれに関連する清明寺の関係文書が紹介されています。(117~118P「村方騒動」)。市史史料の山田家文書と上村の清明寺代々記で微妙なニュアンスの違いがあることに気づかれると思います。それぞれ実際のものを読んでみてください。

 さて、大光寺と新家谷のかかわりですが、中庄新川家文書研究会の近藤孝敏先生の研究によれば、大光寺ではある出来事を機に寺勢が大きく衰えた時期がありました。この出来事は後で記しますが、これを立て直し再興隆させたのが(大光寺)五世の暁誉上人です。

 この人は、寛文六(1666)年に三谷上野原新田を開発し、二本松六道堂のあたりの新田四枚を当院(清明寺)に寄付しました。これにより、清明寺は大光寺の末寺になったのです(市史史料編159~160P、代々記95P)。この「当院ハ浄願院預寺に有之処、此度寛文元年、大光寺を本寺ト定る。」について、代々記の95P現代訳は「浄願院(信達牧野にあった)の預り寺になっていましたが寛文元年(七年)」と注釈や訂正まで行っており、 研究会のレベルの高さが伺えます。わたしもこの「浄願院」とは牧野の浄岸寺のことだと解釈しています。

 また、さらに市史史料編162~163P、代々記96Pですが、寛文七(1667)年に新家谷高野村の浄福院の開眼供養が、大光寺五世暁誉上人により行われており、「慈雲山浄福寺」となったことを記しています。そして同年の11月に檀家17軒の人達に五重を授けたことも記され、翌八年には藪垣外の荒れ野に田畑二枚を開いて堂田としたのです。

 つまり、新家上村、新家高野に次々と教線を築き末寺とするとともに、高野では「五重相伝」まで行っています。五重という言葉はよく聞きますが浄土宗徒でない私には難解です。多くのサイトの中から比較的分りやすい「五重相伝」はこちらから。そして、重要なのはこの時期近世初期はオフィシャルには在家信徒への五重相伝は(浄土宗で)禁止されていたという事実です。あえて五重を授けたということはいかに信徒との関係強化に配意したかということです。

 また、このような新田開発はいかに中本寺格の寺の住職であっても、経済力の背景がないと行うことは難しいと思うのですが、次にはこの点を考えてみたいと思います。

(6/3追加)

 先ほどの(上村)清明寺が大光寺の末寺になったくだりには続きがあります。重要事項ですので次の④ではなく、今回にふれておきます。「・・・以来、本末の格式、來迎院・勝楽寺・了安寺、元ト法然寺並・・・」という記載です。來迎院とは大津村の「光明寺來迎院」のことでしょう。勝楽寺は北野の「正楽寺(勝楽寺)」のことでしょう。了安寺は大苗代の「了安寺」に違いありません。

 気になるのは我が中村(岡中)の法然寺ですが、「(元ト)法然寺」となっている点です。この元法然寺という記載が大いに気になります。要は清明寺の格式がこれらと同じ平寺ということですが「元」の意味することは何なのでしょうか?。時は寛文六(1666)年のことです。この時点で中村(新家中村でなく岡中の)法然寺に何があったのでしょうか?。(これは、大光寺と信達庄の寺との関連の中で触れます。)

2025/06/01

泉南歴史トピックス 6 浄土宗、本寺、中之庄村大光寺とは②

 中之庄村 大光寺の開基大旦那は中庄新川家②

(このシリーズは①からお読みください)


(泉佐野市中庄 大光寺)

 さて、中庄新川家文書研究会の近藤孝敏先生作成による「元禄9年(1696)6月「開基由緒泉州中庄大光寺末寺帳」(「浄土宗寺院由緒書」巻上)にみる大光寺末寺一覧」に掲載されている末寺は次のとおりです。

  (寺号)   (大光寺との関係)  (所在地、()内は現在)

1.薬師寺   大光寺支配   日根郡 中庄内田出村(泉佐野市中庄)
2.長福寺  中庄大光寺末寺  日根郡 日根(日根野)村(泉佐野市日根野)
3.西上寺     同上    日根郡 日根(日根野)村(泉佐野市日根野)
4.光明寺来迎院  同上    和泉郡 (下条郷)大津村(泉大津市本町)
5.上善寺     同上    和泉郡 貝塚(貝塚寺内)(貝塚市南町)
6.明福寺     同上    日根郡 東長滝村(長滝東番)(泉佐野市長滝)
7.永福寺     同上    日根郡 中長滝村(長滝中番)(泉佐野市長滝)
8.清福寺     同上    日根郡 西長滝村(長滝西番)(泉佐野市長滝)
⑨.正楽寺(勝楽寺)同上    日根郡 (信達庄)北野村   (泉南市北野)
⑩.   了安寺     同上    日根郡(信達庄)大苗代村(泉南市信達大苗代)
⑪.   惣福寺(宗福寺)同上    日根郡 新家(谷)     (泉南市新家)
⑫.   清明寺             同上    日根郡 新家(谷)上村  (泉南市新家)
⑬.   浄福寺             同上    日根郡 (新家谷)高野村 (泉南市新家)
⑭.   地蔵寺        同上    日根(信達庄)童子畑村(泉南市信達童子畑
⑮.   極楽        同上    日根(信達庄)葛畑村     (泉南市信達葛
16.   大福寺        同上    南郡 (麻生郷)馬場村     (貝塚市馬場
17.   常福寺        同上    南郡 (五ケ庄)蕎麦原(蕎原)村(貝塚市蕎原
18.   弥勤寺        同上    南郡 (五ケ庄)塔原村  (岸和田市塔原町
⑲.   光明院(日根山道正寺) 同上   日根(信達宿)中小路村 (泉南市中小路
⑳.  浄岸寺     同上    日根(信達宿)牧野村 (泉南市信達牧野
●㉑.   法然       同上    日根(信達庄)中村      (泉南市信達岡中
㉒.   安養寺        同上    日根(信達庄)馬場村   (泉南市馬場
㉓.   正安寺              同上    日根(信達庄)六尾村   (泉南市信達六尾
㉔.   浄泉寺(光明山大覚院)牧野村浄岸寺末(大光寺孫末)
                 日根(信達庄)岡田村   (泉南市信達岡田


以上は、元禄9年(1696)6月の「開基由緒泉州中庄大光寺末寺帳」に搭載されている末寺ですので、これが全てということでなく、時代の変遷で増えたり減ったりしています。あくまで元禄9年(1696)6月時点の末寺ということになります。

 大光寺(1678年までは大高寺)のある泉佐野市中庄地区は、近世岸和田藩領から外れていて、近世はじめから小堀遠州を祖とする近江小室藩領の飛び地でした。この中庄代官を累代務めたのが中庄新川家で、元河内長野荘開発領主の三善氏の庶流で、中庄に移り住んだのち三善(新川)盛喜のときに新川一門衆(佐野川、中庄、貝塚)に加わったといわれています。(堺の沢庵和尚と交友があり、泉州史で圧倒的に有名な武人・文化人で、家康にも喝見した「新川盛政」は盛喜の息子になります。)

 この三善(新川)盛喜が大高寺の開基に資財を献じた開基大旦那で、開山は玄誉上人といわれる僧なのです。(玄誉上人の出自は阿州三好氏といわれますが、近世中期から近代にかけて中庄新川家は元阿州三好氏の庶流と混同・誤認されることが多く、玄誉上人も同様ではないかとされています。)
 なお、現在の泉佐野市湊地区(江戸時代は中庄村湊、その後、湊村)を開拓し、埋め立てて造成したのも中庄新川家であるとされています。

 上記のように、泉南市(信達・新家等)の浄土宗寺院の多くが中庄大光寺の末寺(一部は孫寺)となっており、それぞれの村の歴史に少なからぬ影響を与えたことが分かってきました。大光(高)寺が泉南市の村の歴史に大きな影響を与えた事例について次からは「1.新家谷編」と「2.信達庄編」に分けて見ていきたいと思います。新家谷と大光(高)寺のかかわりについては、泉南市史通史編・史料編、日輪山清明寺代々記にもかなり登場し、触れられています。




泉南歴史トピックス 6 浄土宗、本寺、中之庄村大光寺とは①

 浄土宗、本寺、中之庄村大光寺とは①

 (上は法然寺墓地、下は明治初年の日根郡中村和絵図に「法念寺」と記される場所にあるやぐら部屋等)

筆者が住む和泉国日根郡中村(現、泉南市信達岡中)には、江戸時代の何時頃までか浄土宗の「法然寺」という寺があった。

 「天保十四(1843)年、泉州日根郡寺社覚」には、『浄土宗、本寺、中之庄村大光寺、「今断絶」法然寺、除地寺平地七百六拾七坪、彌勤堂、鎮守、天照大神社』(法然寺関係の記述はここまで。)とある。

寺社覚が記すように、現在の岡中神明神社・大楠も法然寺の鎮守社であったことが伺える。七百六拾七坪(約二反半)という除地面積(年貢免税面積)は、法念寺跡や法然寺墓地、ちびっこ広場、老人集会所も含めて現在の所謂「ちんじゅさん」全体の面積に匹敵すると思われるのである。

 さて、ここまでは以前からも分かっていたのだが、勉強不足だった私には「浄土宗、本寺、中之庄村大光寺」という寺が一体どこにある寺なのかが分からなかったのである。寺社覚には続いて「真言宗、本寺、山州嵯峨仁和寺、地蔵堂守躑躅山 林昌寺、除地寺平地壱万千四百坪、地蔵堂、鐘撞堂、「一名岡寺」「寛永十八年中興」、薬師堂、愛宕山権現社、石鳥居』とあり、現代の村寺、林昌寺の本山(本寺)は有名な京都仁和寺なので、浄土宗なら京都の知恩院のように有名な大寺という既成概念があったからだった。

「浄土宗 本末制度」はこちらから、続いて「本寺・末寺」はこちらから。

たしかに「天保十四(1843)年、泉州日根郡寺社覚」の他の村のところを見ると、浄土宗の寺のある村の浄土宗本寺はほとんどが「本寺、中之庄村大光寺」になっているではないか。中之庄村大光寺は案外身近なところにあったのである。(現在も浄土宗の寺が檀那寺の方はご存知の方が多いのでしょうけれど、岡中の場合は林昌寺だけですので知らなかったのです。)