2025/11/05

二つの「桜地蔵」と二つの「温泉」のはなし。

 


    (旧道からの桜地蔵の場所)

(元々の桜地蔵の場所の写真)

 二つの桜地蔵といっても新・旧の桜地蔵のことではありません。(元々あった桜地蔵を覚えておいてほしいのです)。以前には根来行き南海バスの「桜地蔵バス停」がありました。(今の「市コミバス」停の50mほど海側でしょうか。)


 今回取り上げる話題は、根来街道の桜地蔵は元の場所でないと話が成立しないのです。私は常々、歴史(特に郷土史)を考えるについて、「道」の問題と「川」の問題が極めて大切だと考えています。

 元々の桜地蔵は、金熊寺川支流の楠畑川とその川筋に沿って出来た楠畑道の分岐にありました。三畑越えをいく人はここで旅の安全を祈り、桜の枝を折れば腹が痛くなったという言い伝えがあったそうです。

 「東の歴史」という郷土史本によれば、現在の「楠畑集落」は近世初期は「奥楠」と呼ばれ、根来街道分岐の集落(童子畑)付近が「楠畑」で、奥楠から童子畑に移住した人たちのことを「口楠」と呼んだと記されています。どうも江戸時代の寛永年間(1624〜44)に「(旧)楠畑」が村切りされて、二村に分かれたようです。


 楠畑川に沿って楠畑道を遡りますと、約2〜3キロ先は現在の楠畑集落です。

 楠畑の大雄寺境内には正平(南朝年号)22年(1367)7月10日の六十六部碑があり、少なくとも南北朝時代からの古い村であることがわかります。しかし今の大雄寺自体は昭和12年に、童子畑の地蔵寺の布教所が独立して出来たらしいのですが、もう随分以前から無住で新家中村の宗福寺の御住職が兼帯されていると聞いています。


 楠畑集落の小道を過ぎてさらに進んでいくと、四石山山嶺「槌の子峠」の少し手前に「楠畑温泉」という温泉♨️があったそうです。明治の初年頃までは療養向け温泉として客を迎えていたようです。さらに峠を越えて行くと今度は和歌山県岩出市の境谷村にも「境谷温泉」があって、これら二つの温泉は同質冷泉、胃腸病、冷え込みの諸病に効能があったそうです。

 この境谷村にも「地蔵寺」という寺があることを皆さん知っているでしょうか。偶然としては出来過ぎていませんか。

sakurazizou

(雄山の桜地蔵)

 極め付けはさらにこの道を行けば、紀州(熊野)街道に出るのですが、その三叉には「葛城二十八宿 第四番経塚「信解品」」通称、桜地蔵があるのです。桜地蔵はここからも。(紀州街道桜地蔵のある場所は、ギリギリ阪南市山中渓になります。)


 昔の人に聞くと、楠畑では年末の買い物は根来の坂本市に行ったようですし、阪和線が出来てからも、「砂川」ではなく「山中渓」に出たようです。どっちみち徒歩なので、山中に行く方が近くて早かったらしいのです。時代と共に人の通る道も変わっていきます。楠畑←→境谷の道はもちろん今は自動車は通れません。昔は「単車」は通れたのでしょうか。「信達紀要」(信達町役場発行)によれば、江戸時代に岸和田藩士の土屋鳳州が、境谷と楠畑の両温泉で数日間静養し詩を残したとされていますので、馬は通れたのかもしれません。


 さて、(雄山の)桜地蔵の場所から、「淡輪文書」に出てくる南北朝合戦井山城は直線距離で4キロ程しか離れていません。井山城関係の続きはここからも。

 また、(風吹の)桜地蔵から、五所(御所)谷と呼ばれる後村上天皇仮御所伝承のある大木地区は5〜6キロ程しか離れていないのです。これら地域の南北朝時代の歴史が解き明かされる日がいつかは来るのでしょうか。


 


 


2025/09/27

清左の歴史深堀り5 六尾村は宿駅(宿場)だったのか~?

 

  以前、当ブログの別の話題の時にもとりあげましたが、「・・・根来方面から泉南側への近世初めのルート(三畑超え)は、金熊寺から六尾を経て直接新家に至るルートだった」と書きました。(トピックス4 信達市場唐金新田の謎にせまる③)

 R7/10/11の史跡探訪は六尾村までいきますので、この辺のところをはっきりさせておきたいと思います。まずは「和歌山市史第五巻、浅野長愛氏所蔵 諸事覚書(抄)」です。

写真ではよくわからないのでその部分を下に記します。

〇紀伊国 和泉へ出ル道筋覚

一、 きやうし長尾越 但下貴志平井谷 和泉之内ふけ淡輪口へ出ル

一、 井関越 但直川 いつミノ内とつとりノ市場へ出ル

一、 鬼山口越 但山口 和泉ノ山中へ出ル

一、 きんにやうし越 但根来坂本 和泉ノ内新家へ出ル

一、 大木越 但粉川しのぢんず いつミの内大木へ出ル


次に、新家清明寺代々記所収の「永禄元亀の絵地図」です。

 新修新家古記の世界「解説・清明寺文書について」(松本芳郎氏 144P、(抄))

「①中世における三谷の集落の発展と人々の関心の方向は、現在のわたしたちが考えるような新家川の本流の方向ではなく、その支流の柳谷川沿いの川筋、つまり本文の「永禄元亀の絵地図」にある「大道」にそった方向であったということです。このことによって、この方向の三笠になぜおびただしい寺社があったかということが理解できます。

②人々の関心がなぜ「大道」にそった方向であったかというと、この大道は現在のイヤカサ池付近を通り六尾から根来寺に通じた、和泉国と根来寺を結ぶ主要道路であったからです。この大道を通して根来寺の支配が貫徹し物資の輸送が行われたことでしょう。絵地図には大道の沿道に舞子茶屋、七軒家、岩坂茶屋、牛馬屋、御茶屋という地名が記されていますが、大道の理解によってはじめて可能な地名です。・・・(以下略)」


 現在においても、その道の痕跡はゴルフ場のなかにも残っています。図右上の欠けている池が佐野池、その右が椋谷池、その右がイヤカサ池へとつづきます。六尾村側は近年の「耕地整理事業」で、圃場のありようが大きく変わりましたが、この道の痕跡は残っています。

 さて、以上のことは一つ前の記事(清左の歴史深堀り4)でも紹介した「ひがしの歴史」の81P、「六尾地区」の1行目で「名称起源・・・六つの尾根に由来する。根来街道の宿駅であった。」と記されていることでもわかります。
 さらに、大阪府教委が昭和62年に出した「熊野・紀州街道 歴史の道調査報告書」には、「集落の入口には六尾橋がかかっている。・・・集落に入って130mほど行くと左折する道がある。新家に行く道で、往時佐野の湊から新家に入りこの道を通って紀州にぬけたといわれている。」(9 三畑越(根来路)109P)と記されています。

 なお、極めて古い話になりますが、「田尻町史」には第四代御室門跡覚法法親王の高野山参籠の日記が紹介されています。(「御室御所高野山参籠日記、久安三年(1147)から同六年までの四年間の五度にわたる参籠日記)(「田尻町史」35P~所収。中世日根湊が現在の田尻漁港に比定されることから論及している)。
 第一回目の行程は以下のとおりです。
※(往路)久安三年5月2日京都~窪津~住吉(泊)、3日住吉~日根湊~新家(泊)、4日新家~埴崎~名手(泊)、5日名手~慈尊院~高野山中院。
※(復路)久安三年5月21日高野山~名手(泊)、22日名手~新家(泊)、23日新家~日根湊~住吉~大渡(船中泊)、24日大渡~山崎(船中泊)、25日山崎~仁和寺

 当時新家荘は仁和寺領であったらしいので往復とも、あるいはどちらかは必ず新家で一泊しているようです。この時のルートについて以前私なりに考えたことがあります。今回取り上げている三畑越え(新家ー六尾・金熊寺ー三畑ー根来)なのでしょうか?。そのようにも思えます。

 しかし、新家~埴崎の「埴崎(はんざき)」は皆さんも歩いて知っている「吐前王子」の吐前です。吐前からは紀の川の川船に乗ったのでしょう。三畑越えならば根来からわざわざ船に乗るために吐前まで戻ることはないと思います。根来には「船戸」という河湊があったのですから。(蛇足ですが、船戸とは古い時代に船を綱で引いた人やその人達がいた場所のことのようです。)やはり雄山越え(熊野街道)だったのだと思います。

 そしてもう一点、「根来」の歴史の第一歩は、保延六年(1140)に覚鑁(かくばん)上人が高野山より弘田庄豊福寺(後の根来寺建立地)に止宿したことに始まりますが、後に頼瑜(らいゆ)上人が高野山から大伝法院を根来に移したのは、正応元年(1288)なのです。
 根来街道(三畑越え)は根来寺の歴史と切り離すことは出来ません。歴史軸に照らして考えていくと、御室門跡が高野に参籠した頃は、三畑越えがあったのかどうかは疑わしいのではないでしょうか。(あったならば近いのですから使うはずです)

(9/26追加)
・吐前はJR和歌山線の「布施屋」駅付近ですが、「船戸」駅の二つ和歌山市寄りの駅になります。位置的には吐前は雄山峠を抜けた山口のちょうど南に位置します。また、船戸は風吹峠を抜けた根来のちょうど南に位置します。

(9/27追加①)
・新家と六尾をつなぐ道が昭和10年代くらいに描かれた「砂川案内図(阪和電鉄)」のパノラマ絵図に残っています。


写真を拡大してご覧ください。図の一番上の道がそうだろうと思われます。高倉山の奥が現ゴルフ場ですから、六尾→六尾梅林→椋谷池→笠山(の裾)に至る道が所謂、六尾の方たちが今も言う「しんげみち・みずまみち」だと思われます。

(9/27追加②)
 陸軍が明治18年~22年頃に測量して作成した地図です。マーカーで記しましたが、六尾ー新家をつなぐ「しんげみち」です。新家の宮や野口、高野等をへて水間にもつながっていたのだと思います。

明治や江戸時代には「自動車」はありません。人の移動は徒歩もしくは馬(そして船)での移動しかなかったのです。移動の機会も今では考えられないほど少なかったでしょう。六尾ー新家ー佐野ルートが盛んだったのは何故だったのでしょうか?。六尾ー牧野(オンドリ)が主流になるのはいつ頃からなのでしょうか?。

 私はいろいろ考えてしまいますが、やはり早い時代から「佐野」という町場のポテンシャルが「樽井」に比べて圧倒的に高かったからかもしれません。また、阪和電鉄の信達駅(現和泉砂川駅)ができたのは昭和になってからなのです(昭和5年)。

 根来街道の牧野(オンドリ)より海側の道が、永寿下池の堤道でなく付け替えられたのはいつ頃なのでしょうか?。おそらく自動車(トラック)が街道を走るようになってからだと思うのです。その頃には「しんげみち」の役割は終焉を迎えたのではないでしょうか。

2025/09/20

清左の歴史深堀り4 童子畑の手前に「楠畑」、楠畑川上流に「奥楠」の絵図の謎


(天和年中(1681~83)の岸和田藩領絵図写の信達庄部分)

 童子畑の手前の金熊寺川・楠畑川分岐付近に「楠畑」の表示があり、また、楠畑川上流に「奥楠」の表示があるこの絵図。一度「何故なんだ・・・」と思いだしたら調べたくなります。この絵図(史料)の表示を考えていくための二つの資料を発見しましたのでご紹介いたします。


 一つ目は、「ひがしの歴史」という郷土史本です。(「ひがしの歴史」刊行会、 1995年(平成7年)3月、東小学校・東幼稚園)この郷土史資料の81P、「楠畑地区」の1行目には「伝承・・・昔、戦いに敗れた武士が移住し畑を開いた。」、2行目に「楠畑=奥楠畑、童子畑=口楠畑、楠畑から童子畑に移住した人を口楠(くちくす)と呼んだ。」という記述があります。


 二つ目は、「泉南市信達童子畑地内 童子畑遺跡・童子畑北遺跡 主要地方道泉佐野岩出線道路整備事業に伴う埋蔵文化財調査報告書」(2006年2月 財団法人大阪府文化財センター)です。

 当該報告書の序文では、「街道沿いの字名「大門」は根来寺の門であったなどという伝承も残ります。したがって、今回調査では、根来寺との関わりがあった時代の遺跡が検出されるのではないかと推測されていました。ところが、・・・・・」

 根来街道の道路整備に伴って行われた遺跡調査。結論から言いますとこの調査では古い遺構や遺物は検出されていません。しかし、当該報告書の「付章 第2節、童子畑のその他歴史資料 2.他集落の地番」で報告されている箇所が重要です。その部分をそのまま紹介します。

(報告書11P、図9 泉南市信達童子畑 調査区周辺字名図)

(報告書13P、上から12行目以降)「童子畑の楠畑地番は、とくに丸山の西側・東南側に多い。図9東南側に続く東南部中心集落、また、西北部小集落も、中心を占める居住地は楠畑地番である。さらに、楠畑地番居住家は、基本的には同姓のようである。図9南側に大字楠畑が続くことになるので、ある時期に楠畑から童子畑は分村(むしろ村切り)されたとの推測ができるのかもしれない。」とあります。


 たしかに楠畑には郷土史家には有名な大雄寺境内の「六十六部石碑」正平22年(1367、正平は南朝年号)が残されているし、葛畑の八坂神社「供養塔」は応安7年(1374、応安は北朝年号)と、中世南北朝時代にさかのぼる遺物が残されていますが、童子畑には今のところ近世遺物しか見つかっていません。その意味で楠畑、葛畑に比べては新しい村なのかもしれません。


 話は変わりますが、先に紹介した「ひがしの歴史」の81P、「堀河地区」の2行目には「南北朝時代に両軍がこの地を通り交戦した。」と記されています。楠畑・葛畑両地区の石碑の時代には、正平24年(1369)に楠木正儀(正成の子)が北朝に降伏しているし、康暦元年(1379)には、幕府(北朝側)の南征軍が橋本正督の土丸城を攻略しています。この地区にはまさに南北朝合戦の痕跡が刻みこまれていると思われるのです。それにしても他市に比べて歴史研究が遅れている泉南市、急がないと重要な歴史遺物も保存できなくなってしまいます。

 さて、童子畑の話が楠畑の話になってしまいましたが、「楠畑」の楠はひょっとして「楠木」の楠からきているのではないかと考えたりしたら、皆さんから笑われてしまうでしょうか。

(9/21追加)
・すぐに読んでくれた続者から、「「村切」とはなに?聞いたことない。」と質問を受けました。以前に例会で説明した記憶があるのですが・・・・。すみません。
「村切り」はこちらから。    また、参考として「村請制」はこちらから。
 

 

2025/09/02

清左の歴史深掘り3  新家の交差点にある古い「歴史街道」カンバン。

 

(新家駅から海側におりた「交差点」にある古い「歴史街道」看板。ローソン駐車場横)


上は新家地区の泉南市民歴史倶楽部の会員さんから「連絡・質問」を受けて、現地に赴いて撮った写真です。看板のある場所が分かりやすいように下に地図を示しました。

 会員さんの質問は3点、①「歴史街道」とは何なのか?(歴史的な街道の説明表示なのだと思うが・・・)②随分古くなって、説明表示が欠落してしまっているが、何を書いていたのか?。③この「歴史街道」は何という街道だったのか?(熊野街道?、紀州街道?、それとも山側に行く粉河街道?)というものだった。

 実は私もこの場所を通る度に気にはなっていたが、自動車で通り過ぎることが多くついそのままになってしまっていたのだった。

 まずは「歴史街道」の取り組みについて「ネット」で調べてみた。歴史街道のHPの中で「歴史街道とは」を開けてみると、以下のとおりで少し長いがそのまま紹介する。

『「歴史を楽しむルート」として、日本の文化と歴史を体験し実感する旅筋をつくり、内外に発信していこうー    

 国際社会のなかで自国の文化や歴史を語れない、という問題意識のもと、1988年「歴史街道づくりの提言」が発表されました。この提言を受け経済界、行政、民間企業の賛同を得て、1991年、歴史街道推進協議会が発足。現在、官民および歴史街道計画を応援する「歴史街道倶楽部」会員の支援をいただき各種事業を進めています。「歴史街道計画」は、先人から受け継いだ豊かな歴史文化を次の世代につなげていく、まさにSDGsの取り組みです。」』となっている。

 関西の経済界(関経連)と府県(行政)や学識で組織された協議会が推進主体であり、30年以上経ってはいるがHPは更新されており、「歴史街道」というタイトルのTV番組やPHP社から出ている同名の歴史雑誌もみかけたことがある。

 ということで、①の「歴史街道」とは何なのか?、については上記のとおり、関西財界と行政が協力した推進協議会が進める「「広い意味」で先人から受け継いだ豊かな歴史文化を次の世代につなげていく取り組み」ということができそうである。 

 ②については、調査に困難を極めた。道路わきのフェンスに頑丈に設置されており、単なるカンバンではなく「道路占用物」ではないかと思った私は、大阪府庁に電話で照会したがなかなか要を得なかったが、やはり府に「歴史街道」の担当窓口はあって、実際に当該場所にカンバンを設置したのは岸和田市にある府の出先機関である「大阪府民センター(岸和田土木事務所)」であることが判明した。

 府民センター(岸和田土木事務所)に架電照会してからも回答に時間はかかったが、(古いことなのである程度時間がかかるのは致し方あるまい)後日、照会を受けた職員から電話回答があり、「看板に記されていた内容は、⒜山側に行けば新家の山田家住宅がある。⒝道を少し行けば「厩戸王子」がある。」ことを案内していたとのことである。質問③のこの道が何という街道なのかを尋ねても判らない様子だった。そして、「当該カンバンを設置する時点では地元市町村(泉南市)と協議、調整のうえ設置している。」とのことであった。

(ローソン駐車場から見た交差点付近、真ん中は府道㉚で左が病院で右がGS。)

(交差点付近から見た府道251田尻新家線。樫井の大正大橋方面から)

 岸和田土木事務所の職員も古い時代のこの道(府道30、あるいは府道251)が何街道なのかは知らなかった。(紀州街道、熊野街道ではないのか?・・・という風だった。)

さて、古くはこの二つの道は何街道だったのであろうか。


 上の地図は、陸軍が明治18年~22年頃に日本ではじめて測量技術に基づいて作成した地図である。もちろん当該図には南海電鉄や阪和線は無いし、国道㉖や旧国道㉖(府道204)もありません。あるのは、樫井川に沿って「紀州街道(熊野街道)」があるだけで、この道は後に国道29号線になりました。紀州街道以外は、樫井村から大正橋を渡り、すぐ兎田村に行く道。大正橋から下村に行き、下村から新家村(中村)へ、そして上村に行く道。上村から宮に行く道が記されています。また、新家村(中村)から兎田に行く道もあり、新家村(中村)から野口を経て高野へ、そして別所へ行き、別所からは上之郷の下村にもつながっています。要は集落間の里道ネットワークだけなのです。

 上の看板が設置された、府道30号も府道251号も全く元となる里道すらもないところに昭和になってから作られた道の交差点なのです。

 現在の「紀州街道(熊野街道)」と言われている道も、微妙に道筋が変わってしまっている箇所は数多くあります。しかし、「先人から受け継いだ豊かな歴史文化を次の世代につなげていく」ためにも、もう少し「歴史を大切にする」必要があるように思います。

 新家地区は、泉南市の中でもとりわけ昭和~平成の流入人口が多く、古くからの住民よりも新住民の割合が多い地域です。当該カンバン地点が紀州街道(熊野街道)と勘違いする人がいないように願うばかりですし、推進協議会・府、市が知恵と力を合わせて、当該カンバンも「持続可能」なものにしてくれるよう祈るばかりです。(個人的には設置場所から見直す方がよいと思いますが、皆さんはいかがですか。)

2025/09/01

今年も10/5(日)から2025新川塾。私はトップバッターで登場します。



清左のいい話④

2025年度「新川塾」。10月5日(日)から「ふるさと町屋館」ではじまります。

今年も「泉佐野ふるさと町屋館」恒例の「新川塾」が、10/5()12/14(日)までの原則土・日曜日午後2時から3時30分まで、11回連続シリーズで行われます。

私は初日にトップバッターとして、泉佐野市と泉南市の両市に関係する「唐金新田の謎にせまる -唐金興隆の開いた新田とはどこかー」というテーマでお話させていただけることになりました。

くわしくは「ふるさと町屋館 新川塾」のページから。

(私の担当日)

と き  令和7年10月5日(日)午後2時~3時30分まで

ところ 泉佐野市本町5-29  TEL072-469-5673

申込み 電話同上、FAX072-479-6789

※みなさんの御参加をお待ちしています。



2025/08/31

泉南歴史トピックス6―大光寺末の信達庄三カ寺のその後⑯

 泉南歴史トピックス6―大光寺末の信達庄三カ寺のその後⑯

―信達庄三カ寺のその後⑯(今回こそ最終回)―

 当シリーズは、元々が⑩で終了予定だったのですが、続者からの質問や要望にお答えしたり、いろいろ調べていくうちに更に書きたいことが増えたりと⑮までも延長してしまいました。この辺で当シリーズを本当に終了いたします。なお、①~⑮記事で更に新しい事実が判明したときはまた追加をする扱いにしたいと思います。

 さて、前回のシリーズ⑮で、シリーズ②で示した「元禄9年(1696)6月「開基由緒泉州中庄大光寺末寺帳」の24カ寺に貝塚関係の寺の名称がないのは、当該末寺帳作成以前に知恩院直末寺院になっていたからで、信達庄の四カ寺が元禄9年(1696)の末寺帳に搭載されているのは、その実態は別として正式に大光寺の末寺から離れたことにはなっていなかったからと思われると書きました。

 その後、これら信達庄三カ寺(「阿弥陀堂(寺)」として、幡代光明寺触下で知恩院直末として復帰した六尾正安寺は除く。)について、大光寺は復帰への努力をしなかったのでしょうか。これまた中庄新川家文書研究会の近藤孝敏先生の研究成果をご紹介しておきたいと思います。

元禄9年(1696)の全国末寺調査の際には牧野浄岸寺、中村法然寺、馬場安養寺は「出入り以来、村ごと改宗退転」となっていました。本件はその後も問題になり、元禄14年(1701年)4月14日に大光寺は退転した三カ寺に関して、知恩院に岸和田藩寺社奉行衆に対処を求める書状を出すよう要請したようですが、支障(藩領内干渉になる)があって実現しなかったようです。

  また、本件に関し宝永五年(1708)2月に、尊統法親王(知恩院門跡三世)の坊官・家老中から、春木西福寺へこの件を仲介するよう依頼されたのですが、関与できない旨を本山と協議のうえで断りの返答をしたことも判明しています。

  本年6月1日にはじめて投稿した本シリーズですが、以前から私の研究課題であった「まぼろしの中村(岡中)法然寺問題」が、京都の本山知恩院や岸和田藩も巻き込んだ歴史の一幕であったことが分かって本当に驚くばかりです。

(寛永十六年(1639)の出入り時に、大光寺開基大旦那新川盛明が信達庄現地から、旦那衆中や信達庄の浄岸寺をはじめとした諸末寺に書き送った書状の下書き(再掲))

(2025/9/29追加)
・六尾正安寺と幡代光明寺に関して、新知見があり追加記事を載せましたので、シリーズ⑩及びシリーズ⑭の9/29追加記事をお読みください。


2025/07/23

泉南歴史トピックス6―大高寺と貝塚方面四カ寺のその後⑮

 泉南歴史トピックス6―大高寺と貝塚方面四カ寺のその後の歴史⑮

―大高寺と貝塚方面四カ寺のその後⑮―

(このシリーズは①からお読みください)


 寛永十六(1639)年の大高寺長老(真誉)と大旦那中庄新川家(新川盛明)の紛争が起こったのは丁度、岸和田藩主が松井(松平)氏から岡部氏に変わる前年になります。盛明(岸和田藩外の小堀藩中庄代官)が岸和田藩の奉行に事情報告したシリーズ⑥の文書は、「岡田内匠(久次)」と「石川善太夫(間隆)」宛てとなっており、両人は松井(松平)岸和田藩の奉行であることが判明しています。


 この文書で記される、盛明の主張では長老真誉は、傲世(驕り高ぶること)で籤好み(博打好き)、魚鳥を放し飼いにして浪人を抱えたうえ、朝夕勤行を怠慢、寺庫裡を荒らしたことで檀那側と亀裂が生じたと報告しています。また、長老が籤好みだったことは、寛永十五年以前の泉州湊浦の一得斎という人物の書状によって、大坂の籤出来の情報がもたらされていることが判明しており、この点については一定の裏付けがあるようです。 


 なお、シリーズ⑨の文書は、盛明がこの一件で動揺する信達庄に赴き、浄岸寺をはじめとする諸末寺・惣旦那衆に対し、真誉への心付(援助)や当面身を寄せた木積村への立入(見廻り)を行わないように勧告しています。


 さて、この時長老と行動を共にして、すぐに大高寺の末寺から離脱した畠中村称名寺(のち長楽寺)、木積村観音寺、橋本村安楽寺、脇浜村浄雲寺はその後、どのような歴史をたどったのでしょうか。寛永十六年(1639)以降、四カ寺は12年間の無本寺期間の後、慶安四年(1651)に畠中村長楽寺と他の三か寺が本末関係を結んだようです。


 実はこの畠中村称名寺(のち長楽寺)は、本山知恩院の第35世勝誉と縁故をもつ本誉旧悦(勝誉の直弟)が住持となり、他の三か寺を末寺化したようなのです。(前回⑭で示したとおり、知恩院勝誉(第35世勝誉旧応)の在任期間は1650~1657年)


 しかしことは複雑ですが、寛文元年(1661)にこれら四カ寺間にも本末紛争が発生してしまい、結局それ以降それぞれが知恩院直末寺院として、別々の泉州触頭の下に編成されたようです。(長楽寺、安楽寺は岸和田の光明寺触下。孝恩寺(木積の観音寺の後身)は春木の西福寺触下。浄雲寺は堺の超善寺・遍照寺触下。)


シリーズ②で示した「元禄9年(1696)6月「開基由緒泉州中庄大光寺末寺帳」の24カ寺にこれら貝塚関係の寺の名称がないのは、当該末寺帳作成以前に知恩院直末寺院になっているからなのです。信達庄の四カ寺の名称が元禄9年(1696)の中庄大光寺の末寺帳に搭載されているのは、その実態は別として正式に大光寺の末寺から離れたことにはなっていなかったからと思われます。


2025/07/18

泉南歴史トピックス6 幡代光明寺と大高寺は関係があるのか⑭

 泉南歴史トピックス6―幡代光明寺と大高寺は関係があるのか⑭

―幡代光明寺と大高寺の関係は⑭―

(このシリーズは①からお読みください)

 泉南市史通史編の「資料」35P、宗教法人一覧(昭和62年4月時点)における、仏教の「浄土宗」寺院は市内で14か寺であり、その中で当シリーズに名称が登場していない寺は、信達楠畑の大雄寺と幡代の光明寺だけとなりました。


今回は、幡代の光明寺を取り上げたいと思います。幡代光明寺については、向井俊生先生の先行研究があります。「幡代の民俗、Ⅱ民間信仰・社寺・講、一社寺、7光明寺」(「わがまちの歴史と民俗 歴研通信集成第一集泉南歴史研究会」所収165P~)です。

必要な部分についてだけ以下にそのまま紹介します。『浄土宗、摂取山光明寺。本寺は京都知恩院である。現存する古文書、寺の棟札・過去帳と古老の話しを総合的に解釈すると、以下のようになる。(中略)その後徳川の時代に至って寛永13年(1636)現在の光明寺の前身が造営中興されたことが次の棟札が光明寺に残っていることからわかる。

       大工棟梁 牧野村 作右衛門

            同   左太郎

 寛永十三年丙乙年造営

            同   喜三郎

            自然田 源太郎

 又古文書(泉南市史史料編P405)からも裏付けられる。その古文書に依れば現在の光明寺の境内には古跡があって、他の寺号が伝えられていたが、二十五、六年以前(寛永十三年(1636))に郡代並河庄太夫殿へ申し入れて村寺として寺を建立した。しかし、無本寺なので、知恩院の勝誉上人を頼んで直末にしていただくようお願いをした。その時「光明寺」という名号を書付けをもって頂戴したとある。換言すれば、「光明寺」というのはこの時点からである。続いて寛文六年(1666)には「無住につき小分の寺に似合う住持を仰せ願いたい」と頼んでいる。(以下略)』

(向井先生が引用している、泉南市史史料編P405、「光明寺住持・御着帳付願書」、寛文六年六月、宇野健次氏文書)

 ここで見なければならないのは「寛永十三年丙乙年造営棟札」と「光明寺住持・御着帳付願書」の二つの史料である。向井先生の解釈をもう少し精緻に見ていくと幾つか気付くことがある。それは、

①境内には古跡があって、他の寺号が伝えられていたとするのは、「阿□他寺号ばかり申伝候」をどう見るかという点である。私は「阿弥陀寺号」ではないかと考えたい。


②二十五、六年以前(寛永十三年(1636))に郡代並河庄太夫殿へ申し入れて村寺として寺を建立した。という点については「光明寺住持・御着帳付願書」が書かれたのは寛文六年(1666)であり、単純に25,6年前として計算すると1641年か40年で寛永十七、八年となるので、単純に棟札の年代と同一なのだろうか。


③無本寺なので、知恩院の勝誉上人を頼んで直末にしていただくようお願いをした。その時「光明寺」という名号を書付けをもって頂戴した。という点は、知恩院の勝誉上人(第35世勝誉旧応)の在任期間は慶安三年(1650)~明暦三年(1657)であり、光明寺という寺号はこの間の何時かについた寺号だろう。そして何らかの事由で無住となって、約9~16年後に本寺に住持派遣を要請した。


 さて、私がここまで本史料についての精緻な解釈にこだわるのは、やはり「幡代光明寺」にも寛永十六年、大(高)光寺の出入りに関わる何らかの歴史が関係、若しくは影響しているのではないかと考えてしまうからである。


「光明寺住持・御着帳付願書」をよく読み込むと、重大な点が浮かび上がってくる。それは上記③に関わる部分で、向井先生は触れられていないが、「御本山勝誉上人様御代二同国畠中村長平寺住持本誉を頼候て、御直末寺・・・」である。『畠中村の長平寺住持本誉に頼候て直末にしていただいた』と記されている点である。畠中村の長平寺とは後の「長楽寺」のことで、本シリーズの⑥で記したが、寛永十六年の出入り後、長老真誉に与して即末寺を離れた四カ寺の一つで、貝塚方面の中心寺院が長平寺(長楽寺)なのである。慶安三年(1650)から明暦三年(1657)頃の長平寺(長楽寺)は他の三カ寺を末寺にしていたようです。

 その意味では寛永十三年(1636)に造営された「阿□他寺、阿弥陀寺?」は畠中村長平寺(長楽寺)との間に何らかの法縁を持っていたのかもしれません。史料的な裏付けはありませんが、長平寺(長楽寺)末であった可能性も考えられるのです。

 あるいは貝塚方面四カ寺も信達庄四カ寺も結局大(高)光寺末を離れたのですから、所謂長老真誉グループであったわけで、信達庄の牧野浄岸寺との法縁で繋がっていた可能性も考えられます。寛永十三年(1636)の棟札は牧野村の大工棟梁のものなのです。

  そして、さらに考えなくてはならないのは、本シリーズ⑩で触れた六尾村、正安寺との関係です。⑩には「寛永十六年の出入で大高寺末から離れた正安寺が一旦廃絶し、その寺跡に阿弥陀堂を再建、改めて幡代光明寺触下で知恩院直末の浄土宗寺院として再興されたのではとのこと。」と記しました。


 江戸時代も幕府の寺院政策の変遷の中で寺院の新設が難しくなってきます。そんな中で幡代阿弥陀寺→六尾阿弥陀寺の流れがあったのかもしれません。幡代光明寺も中庄大高寺と無関係ではなさそうです。


          (幡代 光明寺)

(7/24追加)
・7/23にシリーズ⑮を書いていて考えたのですが、畠中村長楽寺の寺号は⑮のとおり称名寺→長楽寺で、「長平寺」だったことは他資料等を総合しても今のところ発見できません。確証はないのですが泉南市史史料編P405に登載されている「光明寺住持・御着帳付願書」原文の翻刻(古文書に書かれた文字を、現代の一般的な字体に改めて書き記すこと)の際に、「楽」を「平」と誤翻刻した結果ではないかと考えます。

(9/29追加)
・私の新しい知見となる郷土史資料を発見しました。「泉南市の神社・仏閣」(泉南中央ライオンズクラブ 平成9年4月)です。
 当資料の23P、「阿弥陀寺(六尾)」の由緒の記載では、『阿弥陀寺は、寛永元年1624年の開基と印されていますが、無住時代が長く、幡代の光明寺に依存していたとのことです。従って明治初年頃の光明寺の過去帳には、六尾の人の名前も見られるとのことです。今は京都の知恩院の末寺となっております。・・・』と記されています。
 このことから考えられるのは、六尾の「正安寺(当シリーズ⑩参照)」が開基されたのは1624年であり、寛永16年(1639)の大高寺出入で末寺をはなれ、無住状態になったのち、幡代光明寺の旧寺号である「阿弥陀寺」が寺基を六尾に移し、光明寺触下で復活したことが証明されたかたちです。
 
 もっというと、光明寺の「寛永十三年丙乙年造営棟札」と「光明寺住持・御着帳付願書」の両史料と今回の新知見を考え合わせてわかるのは、歴史軸に照らしてみていくと、①1624年六尾正安寺が開基、②六尾正安寺が大光寺出入で末寺を離れ無住化、③②の頃幡代阿弥陀寺が開基、④幡代阿弥陀寺が畠中村長楽寺住持本誉に頼んで「光明寺」となり知恩院直末に、⑤その後、無住化していた六尾正安寺を触下として六尾阿弥陀寺として復活。という流れとなるのではないか。

 中村(岡中)法然寺住持等が、男里法然寺として復活した可能性とともに、六尾正安寺住持等も幡代で復活し、幡代阿弥陀寺・その後光明寺となり、そして六尾に幡代光明寺旧寺号の阿弥陀寺を触下として復活。ということだろうか。

2025/06/23

泉南歴史トピックス6 大高寺と檀家制度成立の歴史 ⑬

  ー「大高寺と檀家制度の成立の歴史」⑬ー

(このシリーズは①からお読みください)

(市場地蔵堂)

 当シリーズを見てくれた市場の方から質問がありました。その方の家は古くから浄土宗真如寺さんの檀家の方で、「真如寺と今回知った中庄大高寺や牧野浄岸寺との関係が分かれば教えてほしい」とのことでした。結論から言えば、質問にお応えするために必要な史料は今のところ見つかっていないというのが現実です。

 ただ、当シリーズ①~⑫をお読みいただいたことを前提に、日本の当時の村と寺院の画期となる重要な歴史のことをご紹介したいと思います。その上に立って、史料実証主義ということからは禁じ手となりますが、今日判っていることをもとに一定の推論を立ててみることは可能です。(あくまで筆者の推論で「歴史」ではありません。そのことをご理解いただいたうえでお読みいただきたいと思います。)

 さて、大高寺開基大旦那新川家と長老真誉の紛争(出入)があったとされる寛永16(1639)年頃から、大高寺五世暁誉が新家上村の清明寺を末寺化した寛文6(1666)年頃の前後は、日本の仏教史、もっといえば近世封建制度にとって極めて重要な時期だったのです。

 寛永14~15年にかけて肥後国天草郡・肥前国島原郡でキリスト教徒の農民が蜂起した所謂「島原の乱」が発生しました。島原藩と唐津藩の政治は一時ストップしてしまい、ほぼ五か月間はキリシタン農民の天下になってしまったのです。

 慶長19(1614)年の高山右近らの国外追放や、元和8(1622)年の長崎での「大殉教」(55名の宣教師等を処刑)などの後でも、一部信者は迫害に屈せず潜伏して、信仰を持続(隠れキリシタン)した者も少なくありませんでした。

 幕府は島原の乱後、キリスト教徒を根絶やしにするため、「踏絵」を行わせて転宗させただけではありません。史料として残っている九州小倉(細川)藩の例では「転(ころび)吉利支丹寺請証文」を提出させたことが分かっています。これは①本人の転証文、②村仲間による転んだ証文、③庄屋・村役人による転んだ証文、④寺の住職による転んだことを保証した証文の4枚をセットで提出させるくらい徹底していました。

 寛永17(1640)年には幕領に「宗門改役」を置き、寛文4(1664)年には諸藩にも宗門改役を置いて、所謂「宗門改め」が全国的に実施されるようになりました。また仏教寺院の統制は、本山、本寺に末寺を把握させる「本末制度」を実施しつつ、各宗派の本末制度が整った寛文5(1665)年には、仏教寺院僧侶全体に共通の「諸宗寺院法度」を示し、各教団への幕府の統制窓口として「触頭(ふれがしら)」を江戸に設けさせたのです。

 このような流れの中で、決定的な役割を果たしたのが、キリシタンではなく、各寺の檀家であることの証明を全国民に義務付けた「寺請証文」の義務付けでした。島原の乱鎮圧の寛永15(1638)年からですが、それまでの日本人は全員が菩提寺をもっていたわけではありません。全国の約六万五千か村それぞれに日本人全員を受け入れる寺があったわけではないのです。

 幕府が寺請証文を義務付けたことにより、必ずどこかの寺と檀家の関係を結ぶ必要が生じました。家から近い所にある寺と信仰の有無に関係なく、寺檀関係を結ばないと自分の身分保証をしてもらえなくなりました。嫁・養子に行くときや、奉公に出るとき、遠方に旅をするときは寺の証明(手形)がいるのです。

 同一村落に寺が無い場合はやや遠くの寺と寺檀関係を結ぶことになりますが、仏教教団の側にも大きな転機が訪れました。この段階で中世後期から「持仏堂」とか「阿弥陀堂」、「釈迦堂」、「不動堂」、とか称する堂宇が村内にあったものを、寺に昇格させて僧侶を定住させることを行ったのです。季節ごとに訪れる行者を定住させたり、近隣有力寺院の弟子を定住させるとか、在地篤信者で阿弥号や聖号を持つ半僧半俗者を堂宇に住まわせ寺に昇格させるケースも多くみられたそうです。つまり、「寺請証文を作成するための寺」が急ぎ必要となったのです。ある仏教研究者の研究によると、現存する寺院の約70%が寺請証文義務化以降に開創された寺だということです。

 幕府はキリシタン禁制を徹底すると同時に、日本人全員の戸口調査を住職の手に委ねます。この寺請証文が集められ、台帳として一村ごとにまとめられたものが所謂「宗旨人別改帳」(戸籍)です。この宗旨人別改帳がほぼ全国で作成されるようになるのが1660年代頃からなのです。その後、毎年書き換えられるようになり、明治3(1870)年まで続きました。


 市場の方からの質問に戻りますが、以上のような日本仏教史の上に立ってみていきますと、市場の真如寺は寺の由緒によると明徳元(1390)年に禅宗寺院として建立されたが、天正年間の信長・秀吉の災禍で焼失し、その後浄土宗に改宗されたのち、謙道好愚上人を中興初代として再建。その後更に六世相誉上人の代に六年の歳月をかけて享保9(1724)年に再建されたとされています。また、古くは南北朝時代の文書にも登場する「仏生寺」境内の地蔵堂にあったとされる現市場地蔵堂の仏像は承応四(明暦元(1655))年、真如寺中興謙道好愚上人が寄進したことが分かっており、少なくともこの時点で真如寺は存在していたと考えてよいのではないでしょうか。

 信達庄の浄土宗中心寺院だった浄岸寺は、寛永16(1639)年以降本寺不帰依となり、いつからか無住・廃寺となったのですが、紛争があった時点では浄土宗真如寺は未だ存在していなかったのではないでしょうか。そして本シリーズ⑨の向井俊生先生の調査がそのとおりであるならば、この時期にどうしても必要となった寺請証文ニーズの受け皿として中興(創建)されたのが、市場真如寺であり牧野往生院ではなかったかと思えるのです。その意味において、真如寺中興初代謙道好愚上人と浄岸寺に何らかの関係があったかもしれませんが、これらは全く史料に基づく裏付けのない筆者の想像でしかありません。

(地蔵堂の仏像は承応四(明暦元(1655))年、真如寺中興謙道好愚上人が寄進)



 

2025/06/20

泉南歴史トピックス6 新家の続者からの要望におこたえします後編 ⑫

 ー「新家の続者からの要望におこたえします 後編」⑫ー

(このシリーズは①からお読みください)


⑪からの続き


(清明寺)

・前身は南北朝時代に開創された新家庄前川(上村)所在の禅宗寺院興禅寺(楠木寺)。興貞禅尼(河内国錦部郡、出自、楠木庶流、「金遣山合戦」で一族滅亡)が亀岡(同庄下村)井出先氏を頼って止住、前川薮内寺(不詳)の空院に閑居し、興禅寺を開基したという。

・興禅寺二世の是雲が佐原直勝(大内義弘家臣)の喜捨を受け、応永7(1400)、仏堂を造立、同15井出先氏からも境内地(南北32間.東西21間余)を寄付された。

・延徳3(1491)根来寺光明新院の子院となって阿学院と改号し、以降、同寺は前川阿学院と称された。

・天正13(1585)3.27根来攻めの動乱で、阿学院坊舎や近隣民家が焼亡した。

・阿闍梨学道(月光院二世良阿覚道大円、謹蓮社保誉の法孫、竜円(三河武割)法弟)、焼け残った阿弥陀堂に寺基を据え、同17.3、坊舎再建の御免を受け、同19~文禄1(1592).2寺坊を再興、日輪山月光院と改め、謹蓮社保誉澄阿を開山とする浄土系寺院とした。なお、この際に浄願院万善和尚(松円山開祖等誉法孫、不詳)の助力があり、その縁故で浄願院末寺(預り寺)となったという。

・大誉祖玄(清明寺(月光院)六世、永禄3(1560)~寛永19(1642)10.6)、慶長17(1612).5の大風雨で荒廃した諸堂を元和9(1623)5.椿谷(新家上村内)へ移転、本堂(四間四方、茅葺)を造営して、翌10.11.8入仏供養を行い、寺号を清明寺と称した。祖玄は元和4(1618)夏に入寺以来25年、上記の業を含む諸功によって中興開祖とされた。

・寛文6(1666)大高寺五世暁誉(難蓮社暁誉生阿)が上村上野原(上之原)で新田開発を行い、田地四筆(二本松・六道堂付近)を清明寺へ寄付した。これを機に、清明寺13世心誉念西は、浄願寺末寺(預り)支配から離れ、正式に大高寺を本寺と定めて、本末格式を整えた。(1.5正月登山:來迎院・勝楽寺・了安寺・元法然寺並み。七月(盆登山):惣末山並み、開山忌:随意、両山・十七カ寺平分寺門中の中座)

・同7.12.20火災で諸堂・相伝什物等が焼失した。

・休三は厳蓮社生誉休三(寛永20(1643)~宝永3(1706).7.10、清明寺16世)。紀州有田郡下村出身、同野上郡(那賀郡野上組沖野々村)法然寺晃国和尚の法弟。貞享2(1685).5. 23に入院、20余年住職を務めた。元禄2~同7の7年間で諸堂を再興し、中興開祖とされた。


(浄福寺)


・「道連地蔵縁起」「宝治寺記」等の古記によると、前身は新家庄奥垣(高野村)に所在した宝治寺(宝治禅寺)と称する禅寺で、開祖は是興禅者という。

・応仁頃、「槙尾弥勒山」(槙尾山施福寺)の支流(末寺)となったが、根来寺結衆が代々住山しており、天台・真言兼学の寺院であったという。

・長享2(1488)頃、浄福院と称し、道連大士を本尊としたと「三谷笹岡之記」にあるという。

・永禄7(1567)頃、同院寺僧恵林が松永(久秀)方に同与、根来寺に反逆したため、元亀2(1571).2.22焼き討ちにあい、堂舎が焼亡して断絶した。

・天正2(1574)、仮の小堂が建立されたが、同13の根来兵乱で焼亡、元和1(1615)には藪垣外へ移転して奥垣・丈武両村の手で常福院堂舎を再興造立し、本尊を住人金五郎の持仏であった釈迦如来像としたという。

・浄福院(常福院)3世恵純が本尊を新たに造立、寛文7(1667).2.20大高寺5世暁誉(難蓮社暁誉生阿)を招き、開眼供養を行い、併せて寺号を慈雲山浄福寺と改めた。これにより、当寺は浄土宗に改宗して大高寺末寺となり、恵純は同寺中興とされた。

・同11、大高寺暁誉が同寺檀家17軒に五重相伝(在家五重)を行い、さらに同8、高野村藪垣外の荒野を開発、田畑2筆(常福寺堂田)を寄付し、本末の結束を強めた。

・玄長は、元禄6(1693)より本堂等の再興を企て、宝永4(1707)2には諸堂が落成、「慈雲山中興」玄長大徳と称された。なお、この時、田畑が永代修造料として寄付されている。

・「天保14泉州日根郡寺社覚」に寺除地198坪とある。


2025/06/19

泉南歴史トピックス6 新家の続者からの要望におこたえします前編 ⑪

 ー「新家の続者からの要望におこたえします 前編」⑪ー

(このシリーズは①からお読みください)

本シリーズは一応⑩までで終了したのですが、新家の続者の方から「新家の「宗福寺」「清明寺」「浄福寺」の歴史が記事ではあまり分からない。」という声をいただきました。本シリーズはあくまで中庄大光寺(これらの寺の本寺)との関係で寺や村に関係したことを記すことを目的としたため、ご意見は当然だと思います。

新家谷の寺と対比する形で、信達庄の方は古い歴史がほとんど分からないと書きましたので、新家谷の古い歴史に期待されるのももっともだと思います。(本当は、ご自身で「日輪山清明寺代々記三谷古記」を読んでいただきたいのですが。・・)

 そんなことから、またまた当シリーズ②で紹介した中庄新川家文書研究会の近藤孝敏先生作成「元禄9年(1696)6月「開基由緒泉州中庄大光寺末寺帳」(「浄土宗寺院由緒書」巻上)にみる大光寺末寺一覧」に掲載されている「11 宗福寺 」「12 清明寺 」「13 浄福寺 」の「備考」に記されている文言の要約をご紹介する形でご要望にお応えすることにいたします。(大サービス)

((惣)宗福寺

・前身は新家庄亀岡(下村)の理岳院蓮乗坊(高野山理岳法師開基、波岡蓮乗寺(不詳)を移転させたと伝わる)という真言宗寺院で、文明15(1483)9には、同寺僧が海会宮寺等の目代に就任、下って永正中頃(1509~17)に至ると、根来寺普照光院末寺(支流)となっていたという。

・天正13(1585)年の根来攻めの動乱で、三谷(新家庄)が「追い武者(返し武者)」のために放火され、理岳院を含む寺坊・地下が焼亡した。

・天正の兵乱で焼亡し、本院が断絶した理岳院空地に、慶長3(1598)、清岸房慶伝(宗福寺開山清誉、井出先氏末孫)が草庵(仮屋)を結び、約30年の間、籠居した。

・寛永3(1626)慶伝が土手岡(中村)の興行堂(興教堂)を「新切り通しの辻」(中村)へ移転させ、興行山惣福寺と称した。

・寛永4慶伝、理岳院を惣福寺へ移転、興行堂用材と合わせて堂舎一宇を造営して、同、8.14寺号を白露山宗福寺と改め、正式に大高寺末の浄土宗寺院として開基した。

・貞享3(1686)。3世秀誉回岩が宗福寺を再興し、大徳 と称された。

・宝暦9(1759)。棟札によって、宗福寺の現本堂が再興されたことがわかる。

・大阪府全志(大正11)では、清月院と院号を示し、佐野上善寺末とあり、当時は大光寺末を離れていた。


●「12清明寺」「13浄福寺」は次回とします。









2025/06/15

泉南歴史トピックス6 「六尾村 正安寺」「馬場村 安養寺」のこと⑩

 ー「六尾村 正安寺」「馬場村 安養寺」のこと⑩ー

(このシリーズは①からお読みください)

 六尾村には現在も浄土宗寺院の「阿弥陀寺」がある。最近は無住になったので葛畑村極楽寺住持が兼帯されている(童子畑村地蔵寺も同様)。近藤孝敏先生の調査によれば、寛永十六年の出入で大高寺末から離れた正安寺が一旦廃絶し、その寺跡に阿弥陀堂を再建、改めて幡代光明寺触下で知恩院直末の浄土宗寺院として再興されたのではとのこと。(天保十四年泉州日根郡寺社覚では堂守が管理する阿弥陀堂として搭 載あり)

  馬場村の安養寺に関しては、私が以前「泉南歴史トピックス2 鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎⑤」で続者に馬場の小字地図資料によって馬場の「高城の宮(高城神社)」があった「字殿垣外」を示したが、当該「字殿垣外」に属する、現馬場老人集会所の右横に「安翔寺跡上地(アンヨウジアトカミチ)」という字表示が示されている。上地(かみち、じょうち)とは、幕府や藩が没収した土地のことなので、かつて当所に寺院があり、除地(じょち・年貢や諸役が免除された土地のこと)であったが、その後いつか上地となったと考えられ、寺号の漢字が違う点はあるものの、近世までは寺と社が近接する例が通常なので、当所が元安養寺跡と考えて差し支えないと思われる。(天保十四年泉州日根郡寺社覚では除地平地825坪とあり、中村(岡中)同様に寺社全体での面積と思われる。

 ただし、今後の課題としては、俵屋新田村の同名の「安養寺」との関係を調査・研究していく必要がある。馬場村、樽井村、牧野村はその村領が俵屋新田として開発されており馬場は「俵屋新田国市場」に隣接している。新修泉佐野市史によれば俵屋の安養寺は慶安四(1651)年に佐野村上善寺末として中興造営されており、法然寺の連続性の問題と同様の点を今後究明していく必要がある。

 以上、寛永十六年の出入り以降、本寺大高寺不帰依という状態になってしまったとされる信達宿周辺四カ寺(牧野村浄岸寺、中村(岡中)法然寺、馬場村安養寺、六尾村正安寺)について見てきたが、この事件が結果としてこれらの村が新しい檀那寺に変わるきっかけとなってしまったわけである。本シリーズを締めくくるについて、寛永十六年にあった新川盛明と長老真誉の紛争の内容について明らかにしておく必要がある。だだし、⑥の冒頭に示したのは開基大旦那側の言い分の史料なので、この内容が全ての原因かどうかはわからない。

 

新川盛明が松井氏岸和田藩の奉行あてに事情説明する書状下書き

盛明が作成した長老の過失や末寺分断の状況を書き上げた箇条書きですが、近藤先生が翻刻してくれている内容をまとめますと、「くじこのミのゆへニて候」「朝暮のごんぎゃう(勤行)をもしかと不被仕候事」「魚鳥寺中へ被入候事」「ろう(牢)人かか(抱)へ置き被申、此ろう人いたつらもの(徒者)ニて候事」「寺のくりの内あらし被申候事」・・・

 やはり盛明が怒るほど僧としては問題行動が多かったようです。寺の庫裏でなにをしていたのでしょうか。近世初期の僧たちをめぐる諸相はどのようなものだったのでしょうか。筆者が一番気になるのはやはりくじこのミのゆへニて候」の点です。「くじ」とは「賭博」のことです。そして「寺銭」という言葉の語源は、江戸時代に寺社を賭博を行う場として選んで、賭博による儲けの一部を寺社に寄進したことからきているといわれています。

最近歴史家として注目をあつめる河合敦氏の考えさせられる「河合敦のコラム」を紹介して本シリーズを終了いたします。


(9/29追加)
・私の新しい知見となる郷土史資料を発見しました。「泉南市の神社・仏閣」(泉南中央ライオンズクラブ 平成9年4月)です。
 当資料の23P、「阿弥陀寺(六尾)」の由緒の記載では、『阿弥陀寺は、寛永元年1624年の開基と印されていますが、無住時代が長く、幡代の光明寺に依存していたとのことです。従って明治初年頃の光明寺の過去帳には、六尾の人の名前も見られるとのことです。今は京都の知恩院の末寺となっております。・・・』と記されています。
 このことから考えられるのは、①1624年六尾正安寺が開基、②六尾正安寺が大光寺出入で末寺を離れ無住化、③②の頃幡代阿弥陀寺が開基、④幡代阿弥陀寺が畠中村長楽寺住持本誉に頼んで「光明寺」となり知恩院直末に、⑤その後、無住化していた六尾正安寺を触下として六尾阿弥陀寺として復活。という流れとなるのではないかと思われます。

 このように見ていくと、六尾正安寺の住持等が大光寺出入り以降、幡代に寺基を移し幡代阿弥陀寺→光明寺となり、後に六尾阿弥陀寺として復活した可能性が高く、幡代・六尾の関係でみると六尾が先と考えることができます。
(当シリーズ⑭の9/29追加記事も併せてお読みください。)






2025/06/14

泉南歴史トピックス6 いよいよ大高寺末寺「牧野村 浄岸寺」のこと⑨

 ーいよいよ大高寺末寺「牧野村 浄岸寺」のこと⑨ー

(このシリーズは①からお読みください)

(上記書状は盛明が信達庄現地から大高寺旦那衆中、及び浄岸寺をはじめとした諸末寺に書き送った書状の下書き)

 新川盛明が大高寺長老追放事件で、直接信達庄にまで赴き村や末寺の動揺を抑えようとしたのですが、やがて信達宿周辺四カ寺(牧野村浄岸寺、中村(岡中)法然寺、馬場村安養寺、六尾村正安寺)は本寺不帰依という状態になってしまいました。信達宿周辺の寺の中で中心的な存在の寺は牧野村浄岸寺だったようです。このことは、信達庄岡田村の「浄泉寺」が「牧野村浄岸寺末(大高寺孫末)」となっていることや、当シリーズ③で記した新家上村の清明寺が大光寺末寺になるまでは、「浄願院(信達牧野にあった)の預り寺になっていた」という代々記95Pの記述からもうかがえることです。

 さて、この浄岸寺についてもかなり以前からの筆者の調査研究の対象なのですが、泉南市史に出てくるわずかな記載しか何も判明していません。私の本家の従姉は現在94歳ですが、婿の義従兄とともに今も田地に出るほど矍鑠としており、牧野の「浄岸寺」のことを聞いたことがありますが、岡中では「ほんみち本殿」のとなり(岡中側)の山(連続丘陵で二こぶになっている)を昔から「じょうがんじ山」と呼んでいると聞いています。この点をはじめとして、牧野の旧家で私がお世話になっているKさん他、いろいろな方に聞いても「浄岸寺」のことはご存知ありません。牧野村は市場村と「小栗街道(熊野街道・紀州街道)」沿いに連続して発達した村なのですが、牧野村の方で市場村の浄土宗「真如寺」の檀家になられている方が多いことくらいしか分からないのです。(K氏も真如寺の檀家とのこと。)

 さて、間違いなく寛永年間まで牧野村にあった「浄岸寺」はどこにあったのでしょうか?。これも私の今後の探求課題ですが、一つだけ有力な手掛かりを見つけました。ひょんなことからその記述に出会いました。それは、泉南市民歴史倶楽部の先輩、山中渓N氏が「泉佐野の歴史と今を知る会会報215~222号」(2005~6年)に連続投稿した論考「長岡王子をさがす」の220号の、牧野村周辺をくまなく現地聴き取り調査した時の記述(220号、10P下段)であり、「真言宗往生院」やその境内社の関係で記したくだりの文言を下記にそのまま紹介します。

「・・・・・天保十四年(一八四三)には鎮守天照大神宮社(神明神社)が、そして、前述の弁才天小社が往生院に存在したことがわかる。なお、浄岸寺はこれ(筆者注、泉州日根郡寺社覚のこと)で見る限り存在していたようであるが、向井俊生さんによると、古文書などの調査の結果、元禄の頃に廃寺となり、当時の檀家が二分し、一方は市場村真如寺(浄土宗)に、他方は当院に属した。その時、浄岸寺の本尊阿弥陀如来などを祀るため、現持仏堂(境内で最大の建物)が建立された。浄岸寺は、前述のT谷邸付近(筆者が変更。原文は実名)に、住吉神社に近接してあったとのこと。」と。

 それにしても、N先輩はすばらしい記録を残してくれたものである。そして、あえて「女性民俗学者」と呼ばせていただく程の業績を残されている向井俊生先生の過去の調査によって、浄岸寺をめぐる謎、牧野村の寺の謎(檀那寺の変遷)のほとんどが、この記録を追調査し、裏をとっていくことによって判明するのである。

※T谷邸付近とは、筆者が小学生の頃通った、旧信達第一小学校の小栗街道側ななめ向かい(和歌山側、現奥野呉服店の和歌山側)であり、住吉社や浄岸寺跡はT谷邸の裏あたりと思われる。(筆者追記)


 



泉南歴史トピックス6 中村(岡中)の法然寺と男里の法然寺について⑧

 ー中村(岡中)の法然寺と男里の法然寺について⑧ー

(このシリーズは①からお読みください)

(男里の法然寺「おのさと第三集」から)
 筆者は郷土史好きで、定年退職前から「泉南市史」は自分で買って読んでいたし、その中で紹介されている「和泉国寺社覚」に中村法然寺は出てくるので、昔に村にあったとされる寺が「法然寺」という名称だったことは早くから知っていた。  

 また、男里に同名の寺があり、中村同様「浄土宗」のお寺なので、「まぼろしの法然寺」と現在もある法然寺に何か関係があるかもしれないと漠然と思ってもいた。しかし、私以外の泉南市民で何人の方が現「男里の法然寺」とは別に中村(岡中)に「法然寺」いう同じ名前の寺があったことを知っているだろうか?。

 いつか本格的に「岡中法然寺」と「男里法然寺」のことを研究したいとは思っていたが、他の研究課題が多く今までほとんど手を付けられずにいたのだった。唯一勉強したのは、泉南市史通史編に出てくる男里の法然寺に関するわずかな記載と、男里の郷土史家、谷美光先生の「おのさと第三集」所収「おのさとの各寺院ー法然寺」53~59Pについてのみである。

 谷美光先生によれば、(男里の)法然寺は華憧山勢至院と号し、龍誉上人の開基と伝えられるが開基年代は不詳、中世中頃ではとなっており、二世以降は不詳で九世天誉上人(慶安五(1652)』年、七十一歳没」)の中興から僅かながら記録が残されているようである。とされ、

・「照蓮社寂誉上人大和尚の位牌法然寺にあり。何世に当たるか不明」

・「法然寺で一番古い墓は寛永八年(1631)という(雄信達村誌稿)」

・「法然寺で一番古い墓は先年大阪府の方が調査にこられた時、高さ六十糎の砂岩製五輪塔で刻み文字も分からないが、三五〇年位前と推測されるとのこと(先住藤田簥然師談)」

・「法然寺の本山は、元禄以来山城国伏見竹田村観音寺であったが、明治十一年総本山知恩院に転末している。この間のいきさつについてはわからないが何でも市場村の真如寺と一緒に転末しているようである」

・「同村宝蓮寺が法然寺の触下にあった」

という点が述べられている。


 さて、以下紹介するのは、当シリーズ②で紹介した中庄新川家文書研究会の近藤孝敏先生作成「元禄9年(1696)6月「開基由緒泉州中庄大光寺末寺帳」(「浄土宗寺院由緒書」巻上)にみる大光寺末寺一覧」に掲載されている「21  法然寺 泉州日根郡(信達庄)中村(泉南市信達岡中)」の「備考」に記されている文言である。

 「中村法然寺に関連して、同じ信達庄内の男里(小野里)村所在の法然寺が注目される。元禄9(1697)「浄土宗寺院由緒書」では知恩院末の山城竹田村観音寺の末寺として書き上げられているが、起立・開基由来は不明とされている。・・・・開基年代は不明ながらも僧龍誉を開山とする(P972)。同庄内近隣で、同じ寺号を有する寺院が無関係であることは考えられず、或いは寛永の出入りで大高寺末から離れた法然寺住持らが寺基を男里に移し、縁故を頼って知恩寺末の竹田村観音寺末寺になったのではなかろうか。」と。

 今回紹介した近藤先生の研究は「私も違いないと考える」といいきれるほどの水準にまで私の今の認識は達していない。それは、谷先生が紹介してくれている「法然寺で一番古い墓は寛永八年(1631)という(雄信達村誌稿)」という記述の問題である。これが、「寛永十八年」ならば中村法然寺と男里法然寺の連続性が整合することになる。さらに、天保十四年泉州日根郡寺社覚には「宝蓮寺」の説明として「浄土宗、本寺、触頭男里村法禅寺、」との記載はあるが、触頭が「法禅寺」となっており、さらに肝心の「法然寺」の搭載がないのである。(泉南市史通史編451Pの「表33各村の寺と社」(天保14年「泉州日根郡寺社覚」より作成)にはなぜか搭載あり)このあたりの謎を今後も追及する必要がある。

 大高寺シリーズの中で「中村(岡中)法然寺」にスポットをあてた機会に紹介しておこうと思い紹介させていただいた次第である。

(6/15追加

天保十四年泉州日根郡寺社覚は「和泉志」(昭和32年2月1日、和泉文化研究会の発行で、和泉国神社寺院史料集の1.和泉国寺社覚の中に「泉州日根郡寺社覚天保十四癸卯年」)として61P~82Pまで収録されているが、男里村はなぜか2度掲載されており、一度目の63Pは「男里村の 法然寺、光平寺、浄泉寺、宝蓮寺、神宮寺」が掲載されているが、二度目の78P「男里村の 浄泉寺、神宮寺」、79P「男里村の 宝蓮寺」が掲載されており、なぜか内容を異にする。

・宝蓮寺の説明としては63Pは「浄土宗本寺同村法禅寺八幡社僧」となっており、79Pは「触頭男里村法禅寺」となっている。2度の説明中では共に寺号は法禅寺となっているが、しかし、二度目の掲載ではなぜか「法然寺?法禅寺?」そのものが搭載されていない。

・男里村が「天領、私領の入り組み支配地」となっていたことが混乱の原因と思料されるが、法然寺の中村→男里の連続性の研究とあわせて、男里村の現法然寺の寺号の歴史的な確認及び泉州日根郡寺社覚の二度記載の問題を探求、確認する必要がある。

2025/06/12

泉南歴史トピックス6 信達庄中村(岡中)の浄土宗法然寺と真言宗林昌寺⑦

 ー信達庄中村(岡中)の浄土宗法然寺と真言宗林昌寺⑦ー

(このシリーズは①からお読みください)

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(元禄四年未二月十八日寺社御改帳控。下はその読み下し文)

 さて、画像が多くなってしまったが、これは以前にも当ブログでご紹介したことがある、岡中村林昌寺に残る「元禄四年未二月十八日寺社御改帳控」の全文であり、天保九戌年三月松下九右衛門控書を以って当時の住持がこれを書き写したものである。(九右衛門とは、泉南市史史料編に登場する多くの中村(岡中)が関係する文書に、庄屋として登場する中村の累代庄屋家である(今は断絶))。また、文書自身は村の先輩でともに郷土史の探求に取り組み、いつもご指導賜っているH・Y氏に写しをとらせていただいたものである。)

 筆者は定年後、本格的に郷土史をやるには古文書の翻刻、読み下しが必須であることから、これの勉強に挑戦してはいるが、その技量はいっこうに向上しない。当文書だけはと取り組んだが、翻刻・読み下しを一応成し遂げるまでに三か月以上をついやした。しかし内容には全く自信がなく、古文書学を習得した専門家のかたに指導・訂正いただいて何とか完成をみたものである。

 上記文書の内容からは、中村(岡中)の当時の檀那寺、浄土宗法然寺は寛永16年の大高寺の紛争以降、本寺大高寺に不帰依となってしまった後、寛永18年に別途以前からあった地蔵堂をもとに、真言宗無本寺の林昌寺として『中興』することによって、これを村の新しい檀那寺としたことが、明らかとなるのである。

 なお、先輩H・Y氏による林昌寺住持の歴代の調査によって、一世と二世の住持は金熊寺観音院に兼帯願っていたことが判明しており、筆者の義兄が観音院寺役を務めていた関係から調整いただいて、数年前に岡中先輩H・Y氏、同後輩N・K氏、筆者、筆者義兄の四人で観音院前住職から林昌寺一世及び二世住持の位牌を見せていただき、墓(金熊寺墓地にあり)にも案内していただいて、その事実を確認している。

 法然寺の開基は「年号相知れ申さず候、文禄二癸巳(1593)年中奥造営仕り候」としかわかっていない。また、法然寺がいつから無住となったかは正確にはわからないが、寛永16(1639)年の大高寺の紛争を機に、法然寺に代わって林昌寺を村の檀那寺としたのは寛永18(1641)年以降であることがわかるのである。

 信長・秀吉による天正年間の災禍により、壊滅的な打撃を受けたであろう林昌寺(岡寺?)は、寛永期以降徐々に近世寺院としての形を整え、現本堂の建立や四国八十八か所を山中に勧請するなど、近隣諸村からも崇敬される弘法大師信仰の地となるが、一方では中世に属する「補陀落渡海碑」や「庫裏地下の閼伽井(聖水井戸)跡」、平安時代に遡る「寺院瓦窯跡」など、前史としての貴重な歴史的遺物が数多く存在し、今回分った近世の歴史とは別の古い歴史があったことは想像に難くない。その意味では、新家谷のような中世にまで遡った歴史が全く未解明なことを改めて記しておきたい。

(林昌寺)

2025/06/11

泉南歴史トピックス6 寛永十六年にあった大光寺をめぐるある事件⑥

  寛永十六年にあった大光寺をめぐるある事件⑥ー

(このシリーズは①からお読みください)

新川盛明が松井氏岸和田藩の奉行あてに事情説明する書状下書き

 以前筆者は本シリーズ③で、中庄新川家文書研究会の近藤孝敏先生の研究によれば、「ある出来事を機に大高寺の寺勢が大きく衰えた時期がありました。」と記しましたが、これは信達庄の村や末寺にも大きな影響を与えた出来事でした。それは、寛永十六(1639)年の大高寺長老(真誉)と大旦那中庄新川家(新川盛明)の紛争に端を発した事件でした。以前書いた新家谷への教線拡大より20~30年くらい前の話になります。岡部氏が岸和田に入部したのは寛永十七(1640)年ですので、信達庄の村々は松井(松平)岸和田藩領であった時代になります。

 上に示した画像は開基大旦那家の新川盛明(九兵衛、有名な新川盛政の息子、開基大旦那三善(新川)盛喜の孫)が松井(松平)氏岸和田藩の奉行あてに事情説明する書状(の下書文書)ですが、紛争の内容、原因は後程説明するとして、この事件によって新川盛明は長老真誉を大光寺から追放しました。

 この紛争で、大高寺の諸末寺には大きな動揺が走り、もともと長老びいきだった末寺や模様眺めの末寺、開基大旦那家に従う旨を表明する末寺などに分断したようです。追放された長老真誉はその後、木積村観音寺(事件当時は大高寺末)で暮らしたようですが、新川盛明は事件の直後から、諸末寺の現地に赴いたり書状を出すなどして動揺を抑える努力をしたようです。

 下記の四カ寺は、その時長老と行動を共にして、大高寺の末寺から離脱したようです。畠中村称名寺(のち長楽寺)、木積村観音寺、橋本村安楽寺、脇浜村浄雲寺。(その後、これらの四カ寺については、ある段階で帰参の話があったようですが結局は実らなかったようです。)

 また、信達庄の村々に関しては、長老に積極的に加担したということではなかったのですが、新川盛明が直接信達庄に赴き動揺を抑えようとしましたが結局収拾できず、やがて信達宿周辺四カ寺(牧野村浄岸寺、中村(岡中)法然寺、馬場村安養寺、六尾村正安寺)は本寺大高寺不帰依という状態になっていったようです。上記四カ寺のように即座に末寺を退く形はとらず、長老・本寺大旦那方とも距離を置き、次第に末寺から離れたようです。これらについても後の時代に大高寺から関係修復の動きがあったようですが、結局は寺院自体が退転し、檀中こぞって転宗してしまうほどこの事件は後世に影を落とす結果となったようです。(六尾村正安寺は後世に同地、阿弥陀寺という形で幡代光明寺触下で知恩院直末寺院として再興されています。)






2025/06/10

泉南歴史トピックス6 大光寺と信達庄のかかわり⑤

 ー大光寺と信達庄のかかわり⑤ー

(このシリーズは①からお読みください)

(天和年中(1681~83)の岸和田藩領信達庄部分(歴史館いずみさの所蔵))

 さて、日根郡信達庄の中村(現、泉南市信達岡中)にあった浄土宗法然寺のことからはじまった当シリーズ。いよいよ中庄の大光寺(中本寺)と中村法然寺を含む信達庄の村々にあった末寺とのかかわりについて、近年の近藤孝敏先生による「中庄新川家文書」の研究によって判明してきた歴史と、筆者が以前から調査・研究した結果分かってきた歴史をご紹介したいと思います。

 当シリーズで書いてきましたように、新家谷には、新家上村「日輪山清明寺代々記三谷古記」というすばらしい史料があり、大光寺と清明寺をはじめとする新家の寺の歴史は、それより古くからの新家谷の(寺や社の)歴史の中に、きちんと位置付けすることができます。大光寺の末寺化以前は根来寺の教線が新家谷を支配していた、もっと言えば根来(寺)からの進出が本格的な新家三谷の歴史の幕開けだったことがわかるのです。

 では信達庄はといえば 、平安時代は「摂関家領信達荘」が存在していたことは文書で判明していますが、それ以外はなにも分かっていないというのが現実です。室町時代になって足利尊氏が建武四(1337)年に紀伊国伝法院(根来寺)に「信達荘」を寄進していますので、それ以降は徐々に近隣地域(現在の貝塚、佐野、泉南、阪南等)が根来寺の勢力下になっていくのですが、寺の直轄地だったわけですから、仏教の教線という点では「根来寺真言宗」が支配的であったことは容易に想像できます。しかし、南泉州の各地域が同様にそうであるように、天正十三(1585)年の秀吉和泉・紀州攻めによって、村々の寺はほとんどが焼かれており、それ以前の歴史がほとんど分からないという現状にあるのです。

 なぜこのことに最初に触れるのかは、続者の誤解を回避するためです。今から語る歴史それ以前の村々に、新家谷同様の村や寺の歴史があったであろうことは当然考えられるのですが、分かっていないために語れないのだということを理解したうえでお読みいただきたいと思います。例えば私の檀那寺である寺やその他の村の寺にも、それぞれの前史があったこととは思いますが、伝承の域を出ないこと(例えば行基や道昭の創基伝承)をもって「歴史」とは言えないのです。
 



2025/06/05

泉南歴史トピックス6 続・大光寺と新家谷のかかわり④

 ー続・中庄大光寺と新家谷のかかわり④ー

(このシリーズは①からお読みください)

(現在本堂工事中の大光寺)

 今回も、中庄大光寺と新家谷のかかわりの続きですが、谷の中で最も早く中庄大光寺の末寺になったのは、新家中村の宗福寺です。(市史史料編153P、代々記78P)寛永四(1627)年、清岸房は以前の亀岡理岳院を移して興行堂と合わせて一つの寺を興し、八月十四日「白露山宗福寺」と改め、中庄大高寺の末寺になりました。

 理岳院が天正年間に断絶した後、文禄二(1593)年に月光院(清明寺)が再興されたので五か所の村の107軒が月光院(清明寺)を菩提寺にしていましたが、宗福寺の再興に伴って計56軒が宗福寺を菩提寺としました。残りの亀岡(中村)の家々も客檀家になった経緯がしるされています。(一部、計31軒は月光院と宗福寺の檀家を兼ねたわけです。)

 さて、新家谷の各寺がそれぞれ復興され、大光寺の末寺になっていく経過を市史史料、代々記で見てきましたが、私は前回③で大光寺の教線拡大は新田開発など経済力の背景がないと難しいと思うと書きました。清明寺のところで見ましたが五世暁誉上人が開いたとされる新田の全部を清明寺に寄付したわけではありません。新しい田地は地元の小作か、あるいは他から入植させた下人に作らせたということでしょう。その一部を寺の田にして寺の経営にもあてたということではないかと思います。今流の言い方をすれば、大光寺スポンサードの新田開発ビジネスの一環でもあったのかと考えてしまいます。

 それと同じようなことで、よく検討をしないといけない史料があります。市史史料編の185~191Pに紹介されている文書です。(代々記には見当たりません。)
市史史料編では、「山田新五郎田地買得由緒書 寛文四(1664)年十二月五日 山田美貞氏文書」となっていますが、これは中庄村新川八良左衛門が新家谷の先年之庄屋の財産を買い取っていることが伺える文書です。
 売主は新家先年之庄屋 中村 久内(花押)、中村 九太夫(花押)で、それに続いて同所先年ノ年寄 孫左衛門(花押)、・・・と全17名の名前が連署されており、紙数七枚半で50筆を超える田地や久内の屋敷が記されているものです。高にすると51石を超えています。私が分からないのは「山田新五郎田地買得由緒書」であるのに買主がなぜ「中庄村新川八良左衛門」なのでしょうか?。

 さて、この中庄村新川八良左衛門とは、中庄新川家文書研究会の近藤孝敏先生の詳細な研究によれば、大光寺開基大旦那三善(新川)盛喜の曾孫に当たる人です。

盛喜-盛政-盛明-盛重        中庄代官
         市郎左衛門     将軍家御持筒与力直参御家人
         権右衛門      中庄上出村分家
         〇西金(八郎左衛門)※盛重の子の後見役
            ↓   
※(中庄代官代理、八郎左衛門家(湊浦庄屋)初代、佐野新川家(ふるさと町屋館の家)初代の人)。ちなみに、西金(八郎左衛門)等の母は熊取、中左近女で子供たちは中盛吉の孫でもあります。

 山田家は代々記でも記載されるとおり、正保四(1647)年に樫井村から「中村落合垣外江引越シ、此人山田丈右衛門と云、」とあるように、新家山田家の祖先にあたる人ですが、その「山田新五郎田地買得由緒書」に記されるのは、買得したのは上記、新川八郎左衛門西金になっているのです。その詳しい理由は未解明ですが、上記のような開基大旦那家の活動と大光寺暁誉の新田開発、教線伸長が軌を一にしていることは間違いなさそうです。
(泉南市史 史料編)

(6/9追加)
泉州湊浦新屋一統
 盛重(権七)の子の盛喜(五佐衛門)が幼かったために、中庄代官代理を務めた西金(八郎左衛門)は、新川八郎左衛門分家の初代となる人ですが、17世紀中期以降埋め立てにより成立した、中庄湊浦の庄屋を務めます。そして、ちょうど新家中村旧庄屋、久内の財産を買い取った寛文年間(1660~)の初め頃から、中庄村に泉州湊浦を拠点とした「新屋(あたらしや)一統」と呼ばれる廻船集団が勃興してくるのです。
 新屋一統は「食一統」同様に一軒ではなく、湊浦の「里井家」「中家」「新谷家」といわれる家々で構成され、新屋一統として情報共有して廻船業を営んだことが分かってきています。そして、新屋一統が全国の各湊・浦に入津する際の船往来手形は、小堀備中守の累代中庄代官「新川○〇」によって発行されています。このように見ていくと、食野・唐金が廻船業だけでなくそれで得た資金を金融業や新田経営など多彩なビジネスで活かしていく構図と同様なものがみえてきますが、中庄新川家が当該ビジネスに具体にどのように絡んでいったかは今後の研究を待つところです。
 中庄の奈加美神社(旧、大宮大明神)も大光寺開基大旦那の三善(新川)盛喜が造ったといわれていますが、当神社には中庄湊浦、新屋一統が寄進した「北前船」模型が展示されています。)