2024/09/30

泉南歴史トピックス2ー⑪ 高城の宮の謎


 

泉南歴史トピックス2―⑪

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

「高城神社」がなぜ地元民に定着し、認識されていなかったのか

 

これを考えるためにはいい資料があります。泉南歴史トピックス1-③でも紹介した「和泉国寺社覚」(天保十四癸卯年)です。天保14年(1843)、江戸時代末期ですが、これに搭載されている神社(当時そのような呼称は無かった、いわゆる社(やしろ))は、中村(岡中村)では法然寺鎮守と思われる「天照大神社」、林昌寺の「愛宕山権現社」、雨山の「雨明神」、それと「王子庭、瓦小社」であり、馬場村では安養寺末社と思われる「三宝荒神社」、「住吉明神社」、「小社」と、あえて言えば「国市場除地平地」(金熊権現祭礼の国市座が行われた場所のこと)でしかありません。(中村法然寺も馬場村安養寺も近世初期に断絶した寺で、この件はまた別機会にふれることとします。)

つまり、江戸時代の末でも、馬場の「高城神社」という神社名は無かったのであり、同じく中村でも「意賀美神社」という神社名は無かったのです。それぞれの基になる社はあったのでしょうが、これらは明治維新後に新政府の宗教政策、神社政策によって名称がつけられた神社であると考えられるのです。これには「泉南市史」の「寺と社」に関する記述(450454頁)が参考になるので、ぜひ一度ご覧いただきたいと思います。

(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)

 

泉南歴史トピックス2ー⑩ 高城の宮の謎


泉南歴史トピックス2―⑩

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

本件問題が残したもの、そして高城の宮の謎は?

 

令和6年の秋、今なぜこの問題を話題として、私のブログで発信しようとするのか、それには二つの理由があります。

私が平成28年に資料としてまとめた文書に「今後の対応案」や「今後への教訓」として書いた諸点が本質的には進展、解決していないと思うからです。やむを得ないことではありますが、いまでも検索すれば旅行社のHPなどに出てきますし、図書館にある案内人の会の冊子(加除式)では今も「岡中鎮守の杜に「高城の宮」があった」となったままです(R6/8月現在)。市教委としては表示を訂正したことの発表すらしていないのですから当然のことでしょう。大事なのは同様の事態を引き起こさない様にする努力とその仕組みづくりです。

 それと全く次元が異なる話ですが、私なりの研究の到達点を示しておきたいという思いからです。文献史料からは明確に「高城神社」となっている馬場産土社が、実地調査時に地元の元宮司家子孫のMさんをはじめ他の人達からも、「村の宮さん」「遥拝所」と呼ばれていたとしか聞けなかったのはなぜなのか。もっと踏み込んで言うと、当時の一般的な馬場の方達が「高城神社」という社名をどれほど認識していたのかという問題です。次でこのことを考えてみたいと思います。

(冒頭の絵は、筆者が5年くらい前の市の展覧会で発表したもの)

(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)


2024/09/29

泉南歴史トピックス2ー⑨ 高城の宮の謎


 

泉南歴史トピックス2-⑨

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

その後の経過 (2)

その後も歴史好きの私は、泉南市民歴史倶楽部での活動をはじめとして、歴史関係の取組みを中心に忙しい日々を過ごしていました。「高城の宮」のことは何時も頭の片隅にあったのですが、錯誤問題も役所は放置したままで、「高城」の読みの問題も進展はなく、さらに約4年の日々が経過してしまっていたのです。

 しかし、事態は意外な展開をみせました。令和4年10月の祭礼が行われている日、鎮守社のある老人集会所(祭りの詰め所)に居た知り合いから電話があって、私にすぐ来てくれというのです。先輩のY氏が私に詰め所に来てもらえと言っているとのこと。すぐにとんでいくと、Mさんという女性の方が馬場の「やぐら」について信達神社まで行った帰りに、岡中神明神社に立ち寄り説明板を見て老人集会所に来たというのです。私は全く初対面でしたが、話を聞きだしてすぐに「馬場産土社の元宮司家のMさん」の関係者だと分かりました。ご本人は平成289月に私が現地聴き取り調査を行ったM氏の娘さんでした。お父様は2年前に亡くなられたとのこと。

 私はそれを聞き、M氏ご存命のうちに「説明板」問題を解決できなかったことを詫びましたが、私とMさんの当時のやり取りを具体的にはよくご存じない様子でした。調査結果やその後の経過を簡単にお話して、馬場のご自宅まで車でお送りした事をおぼえています。

その後、Mさんの娘さんは市教委に対して直接働きかけられ、本件問題の調査と善処方を促したことにより急に市教委は動き出しました。そして、「高城の宮といわれた」という説明板での情報発信を保留するどころか、岡中地区に「高城の宮」という表示を「天照大神宮社」に書き換えてくれるよう依頼し、翌年春(R5/春)には表示は書き換えられました。(別シリーズである、泉南歴史トピックス1-③でも示した、「元禄四年未二月十八日寺社御改帳控」に現岡中鎮守社のことも載っており、「天照大神宮社」と記載されているからだろうと思われます。)

(冒頭の画像は「葛城古道」で、数年前の市の展覧会で発表させていただきました。)

(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)

 


2024/09/28

泉南歴史トピックス2―⑧ 高城の宮の謎 

 


泉南歴史トピックス2-⑧

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

その後の経過 (1)

本シリーズの冒頭、2―①で『実は元々、この小文を書いたのは6年以上も前の、平成二十九年十一月のことで、「泉佐野の歴史と今を知る会会報」に投稿するためのものでした』と書きましたが、区切りをつけた一年後においても、市教委は「説明板」による情報発信の保留や訂正等何らのアクションも起こしませんでした。原稿で『今日まで状況を見つめてきましたが、このまま放置しても進展は望めないと判断し・・・』と書いたのはそのためでした。しかし、結果としてこの小文が「会報」に載ることはありませんでした。私が掲載依頼しなかったからです。

それは二つの理由によるものでした。一つは、郷土史研究紙である「会報」に市教委の怠慢を載せることへのためらいからです。郷土史研究についての内容ではあっても、これを伝えることが目的と受け取られることを危惧したのです。二つ目の理由は、岡中か馬場かは別として「高城の宮」「高城神社」の読みが判明していないこと、言い換えれば、なぜ馬場の産土社が「高城神社」なのか、「高城の宮」と言われたのかの問題が自分の中で解決していなかったからでした。

(上の画像は、馬場のM氏に宛てた礼状の控え)

(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)

 


2024/09/25

泉南歴史トピックス2ー⑦ 高城の宮の謎


泉南歴史トピックス2-⑦

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

資料の作成と地区役員を通じた市への上申

以上が本件についての調査結果ですが、私はこれを整理して資料としてまとめ、その最後に「今後の対応案」と「今後への教訓」と思われる点を意見として付しました。

本件は、岡中鎮守社問題としてだけでなく、旧馬場産土社にもかかわる事態であることから早々の対応が必要と考え、平成二十八年九月に区長をはじめとする地区三役に説明し、資料をもう一部用意して市教委に話を上げて対応してもらいたい旨依頼しました。当時の地区三役は、私もよく知っている方々で、私の話にびっくりされましたが理解を示してくれました。

私は、郷土史家として本件に関する一連の調査を行って、一区民の役割として地区役員に事態を説明し、市に対応方を要望してもらえることになったので、この件に一応の区切りをつけて平成2810月に、協力いただいた馬場のM氏に報告をかねた礼状を出しました。なおその年の十一月には区長から「市教委には話を上げてある」との報告を聞いています。

(冒頭の絵は筆者が数年前に市の展覧会に出した水彩)

(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)

 


泉南歴史トピックス2ー⑥ 高城の宮の謎

 


泉南歴史トピックス2-⑥

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

―調査に基づく結論

 以上、大阪府全誌での発見以降、別文献による反面調査や小字特定、並びに現地調査と聴き取り調査を行った結果、岡中神明神社に市教委と区が表示している「古くは高城の宮といわれた」との記載は、馬場産土社(うぶすなしゃ)と岡中鎮守社(ちんじゅしゃ)を取り違えた錯誤であると思われます。両社とも明治時代にいったん信達神社に合祀されており、馬場の社名が「高城神社」であったとの明確な文献史料が複数存在することから、以上の蓋然性は極めて高いと思われます。さらに、実地調査と聴き取り調査により

 ・「昔はこんもりとした森だった」こと、

 ・「大部分の木が過去に切られている」こと、

 ・「大楠が今も残っている」こと、

 ・「旧宮地の一部に老人集会所が存在する」こと、

 等々、岡中の鎮守社と全くよく似たシチュエーションにあり、地元の事をよく知らない関係者が、何らかの伝聞に対し、十分な反面調査をしなかった場合、両社を取り違えてしまうことは十分有り得ることです。私としては、「錯誤の蓋然性が高い」というレベル以上であると思っています。それは、説明板にある「昔は土塀に囲まれ」という点です。実は、私の本家は鎮守社のすぐ近くにあり、従姉は現在九十歳を超えていますが、もの心ついた頃から今日まで、鎮守社前の墓は土塀で囲まれてはいたが、鎮守社が土塀に囲まれていた事実はないと断言しています。一方、馬場での聴き取りでは、多くの付近住民から「宮さんの杜は土塀に囲まれていた」という説明を受けているのです。

(冒頭の画像は、筆者が水彩をはじめた10年くらい前の絵です。)

(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)


 


2024/09/23

清左の論座 1の追録(大切な課題を忘れていないか!)

 清左の論座 1の追録(大切な課題を忘れていないか!)


 私は、清左の論座 1で「大切な課題を忘れていないか!」というタイトルで本ブログで意見を投稿しましたが、読者から「人口問題」として『2008年の1億2800万人が最高で以降は減少に転じ、このままでは2100年には6000万人を下回ると見込まれている。今、仮に少子化が止まったとしても何十年も人口減少は続くというのが現実なのだ。』と書いたが、それはいささかドラスティックに過ぎるのではないか。というご意見をいただきました。

 この数字をどう認識するかは、もちろん人によって様々で自由ですが、念のため私が参考にしたのは「日本の人口動向とこれからの社会」(国立社会保障・人口問題研究所編、東京大学出版会)であることをお知らせいたします。



泉南歴史トピックス2ー⑤ 高城の宮の謎

 

泉南歴史トピックス2-⑤

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

―小字地図による所在地の特定と実地調査-

  泉南市の郷土史研究は、多くの民間人の先学達によるすばらしい蓄積があります。私が最も驚くのは、小字を網羅した小字地図資料が存在することです。それを見ると馬場の高城神社があった「殿垣外(とのかいと)」が現在のどこなのかをほぼ正確に特定することができます。また、殿垣内の東側に「宮ノ前」、北側に「宮ノ下」、南側に「宮ノ上」という字名もみえます。小字の特定に基づき、現在の住宅地図に置き換えてその範囲を特定することもでき、結果として現在の「馬場老人集会所」の付近一帯のかなり広い範囲が「字殿垣外」に該当することが判明したのです。

平成289月の天気の良い日に、大字馬場、字殿垣内付近の実地調査と現地聴き取り調査を実施しました。

―現地聴き取り調査の概要-

  元、馬場産土社宮司の子孫、M氏婦人への聴き取り(後刻ご主人も同席)

・「この辺一帯は、「殿垣外」で、自宅の前は道を挟んで「宮の前」。昔この辺一帯は村の宮さんがあったところ。宮さんは土塀で囲まれており、鬱蒼とした森だった。」

・「当家の先祖はその社の宮司だった。今は社地の面影はないが、自分の祖母は神社関係の付き合いから、長滝「蟻通神社」から嫁いで来た人である。」

・「古文書もたくさんあったが、蔵を潰す際にみな処分した。屋敷内には大きな鳥居の石が残っていたが、家を新築する際に業者に引き取ってもらった。」

・屋敷内の家の左右と奥は畑であり、道から見て右側の畑の中に楠の大木がある。

「以前は3倍の大きさがあったが、危ないので幹も枝も切ってもらった。しかしまた切り口から枝が伸びて大きくなってくる。昔は、樽井、馬場、岡中の三大楠といわれ、もっと大木だった。」

・ご主人と奥さんに神社の昔の呼び名を聞いたが「村の宮さん」とのこと。文献により馬場の当地にあった神社が「高城神社」であったことを伝え、「高城」の読みを聴くも判明せず。

・同社の祠跡が近くにあるとのことでご案内いただいた。

 (M氏宅から祠跡が家のガレージ裏にあるK氏宅までは約百㍍近く離れている。)

  馬場の信達神社氏子総代K氏の婦人に聴き取り(後刻ご主人も同席)

・「この辺一帯は土塀に囲まれた元々宮地だった。老人集会所やこの前の道も昔はなく宮地の中だった。一帯は林と竹藪が輻輳したこんもりとした森で、今でも楠は何とか残っている。他の種類の木もたくさんあったが、昔にみな切ってしまったと聞いている。今は全て住宅が建っている。」

・K氏邸の右側に氏のガレージがあり、横の家との間に狭い通り道がある。そこを通ってガレージの裏手に入ると、旧の村社の灯篭や玉垣が今もあり、少し高くなっている石段の上に祠の場所だった跡も残っていた。(K氏が土地を買う際に、祠跡は残したらしい)

・K氏は現在(平成28年当時)、馬場地区の信達神社氏子総代を務めておられ、「岡中や幡代は戦後、村に分祀したが馬場は戻しておらず、馬場の「やぐら」は今でも毎年、金熊寺に宮上がりしている。」とのこと。

・K氏と奥さんに、神社の昔の呼び名を聴くも、「村の宮さん」で合祀後は「遥拝所」とも呼ばれていたとのこと。なお、当地にあった神社が文献では「高城神社」であったことを伝え、「高城」の読みを聴くも判明せず。

  K氏夫人の友人(ご婦人)

・合祀後、金熊寺の信達神社が遠いので、約五十年位前までは、ここに宮参りをした子供もいたと聞いている。呼び名は「村の宮さん」「遥拝所」と。「高城」の読みを聴くも分からないとのこと。

という結果でした。

(このシリーズは2ー①からお読みください。)(つづく)

 


2024/09/19

泉南歴史トピックス2ー④ 高城の宮の謎

 

泉南歴史トピックス2-④

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

―問題解決の端緒―

(以上のとおり「高城の宮と言われた」という表示は、今から約35年も前に市が表示したものであり、古くなった表示板を更新した平成23年当時の関係者には、関わりが無いことを先におことわりしておきます。)

前記で触れた、岡中の神明神社、王子神社、及び意賀美神社の合祀を記録した文献として、「大阪府全誌」の信達神社の箇所は、本件以外の郷土史研究でもよく見ているのですが、ある時、岡中の三社の数行前に「明治四一年二月五日(中略)雄信達村大字馬場字殿垣外の同(その前の表示と同じという意味、「村社」)高城神社(彦五瀬命、興津彦命、興津比賣命)」という記載を発見したのです。また、「大阪府史跡名勝天然記念物」の信達神社の項でも同様の記載がなされています。

さらに、「馬場」ということなら以前、別件で泉南市史に引用されている「雄信達村誌稿」という文献の存在を知っていたので、これを見てみたいという思いから、当該図書を探したものの、「泉南市図書館」には無く、唯一残っていた「府立中之島図書館」で閲覧した結果、当図書は昭和十六年に雄信達小学校(当時は国民学校)で作製されており、謄写版刷りのものでした。藁半紙刷りで炭化劣化が著しく障れば破れるかもしれない状態で、職員立会のもとで閲覧をしたのですが、やはり第六感が当たり「馬場の高城神社」(名称、所在地、祀神)が記載されていたので、その箇所のみを謄写していただくことができました。

(なお、「雄信達村」とは、合併して泉南町が生まれる前に、男里、馬場、幡代の三か村が合併してできた村であり、当該図書は泉南市にとって極めて貴重な文献史料と考えられ、今の時点で中之島図書館に依頼し、是非とも市として謄写、保存する必要があると考えます)。以上のとおり、本件の解決に繋がる文献二次史料を何とか確保することができました。

(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)



 


2024/09/18

清左の論座 2 歴史語り部とは何か

 

清左の論座 2

 

歴史語り部とは何か

―観光ガイド、案内人、語り部、発信する側の自覚とは―

泉南歴史トピックスの1-⑤で、王子社比定についての市民の意見に対する案内人の対応の問題を取り上げた。『「それは市に言ってください・・・」と返答したというのだ。私はそれを聞いてがっかりした。』と書いた。今回は「人が歴史を語るということの意味」の問題を掘り下げたい。その意味で「清左の論座」の話題とした。

人が「歴史を語る」とはどうゆうことだろうか、歴史とは過去の事実の積み重ねではあるが、タイムマシンのようなものが無ければ、自分の目や耳で直接確認することはできない。時を遡れないかぎり「(絶対的な)真実」は分からない。しかし、そのことを前提として、語る側は調査や研鑽によって自ら「(相対的にだが)本当のこと」と考え信じることを、自らの良心と責任において聴く側に語るのではないだろうか。

その意味では、「ガイド」「案内人」「語り部」といわれるような所謂素人も、学芸員や大学教員といわれるような専門家の方も、レベルの違いこそあれ「(絶対的に)正しい歴史」を常に発信できるわけではないということだ。戦後の自由な研究によって、従来からの「歴史事実」なるものが多く覆ってきているのは周知のことである。

何年も前にある団体で「土丸・雨山城」に登ったときに、あるガイドさんが「橋本正高(督)」(はしもとまさたか)の事績によせて、「一度は北朝側に寝返って、また南朝側に戻った」と説明されたのだ。私は『よく勉強されているな。勇気がある方だな。』と思ったが、怪訝な顔をしている人や何か言いたげな人も多くいたのだった。なぜなら橋本正高は明治以降の皇国史観によって「(和泉)橋本」の地名由来のとおり、貝塚・泉佐野では忠義の英雄で、土丸・雨山城を語る際の中心人物だからである。実はそのころ泉佐野市は、懸命に「新修 泉佐野市史」各巻をつくりあげる努力をしており、新しい市史では「史料実証主義」に基づく歴史記述を進め、先の事実も史料に裏付けされた「新しい歴史」であるからだ。そのガイドの方はいち早く新市史を勉強されていたにちがいない。

私が、「がっかりした」と書いたのは、説明の内容についてではなく、自分の責任において語らない姿勢についてである。意見の対立していることに対して、真剣に調査、研究する中で自分なりの考えも見えてくると思うのだ。観光ガイド等の活動に生きがいを見つけて参加することはすばらしいことである。だからこそ、私も含めて日頃の研鑽はなにより重要であることを肝に命じたいものである。

(上の画像は、筆者が8~9年前に市の展覧会で発表したもの)

 

 


泉南歴史トピックス2ー③ 「高城の宮」の謎


 

泉南歴史トピックス2-③

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

―連想される仮定―

今から思えば考え過ぎなのですが、私なりに「高城の宮」のことについて、いくつかの仮説を立てて考えてみました。その一つ目は、雨山の「意賀美神社」との関連での錯誤・ 混同の可能性です。前記2-①のとおり共に明治四十三年に信達神社に合祀され、その後、大楠の根元に戻っているのですが、祀神の「タカオガミ」の「オガミ」という漢字は極めて難しく、一般人ではなかなか読めないことから、何らかの原因で「タカギ」に変化してしまった可能性です。

また、二つ目は、当地区の林昌寺行基創建伝承に「西南に行基、小社を営み伽藍の外護となしたると伝う。」とあり、寺の外護としての雨山の「高い城」(タカシロ)と観念された可能性があるかもしれないというものです。(なお、雨山とは泉南・阪南市境の阪和道雨山トンネルのある山で、有名な熊野街道「琵琶崖」の頂のこと)

さらに三つ目は、意賀美神社との関係ではないのですが、記紀の神武東征伝承に「菟田の高城に鴫罠張る わが待や 鴫は障らず・・・・」と日本最古の城といわれる「菟田の高城」(タカギ)が登場するのですが、泉南もまた神武東征伝承の地であることから「高城の宮」と呼ばれたかもしれないというものです。

そんな中、私の義兄(姉の婿)が金熊寺地区の寺役や宮役をしていたことから、信達神社の宮司さんを紹介いただき、義兄とともに以前合祀されていた岡中神明神社が、「古くは高城の宮と言われた」という故事について教えていただく機会をもったのです。当時の宮司さん(先代)は、お父様(先々代)が急に亡くなり、神社の事の引継ぎを全くしてもらえなかったため「全く知らない」ということでした。そこで、市の教育委員会に直接指導を仰ぐのが一番だと思い、文書による照会を行いました。

市教委からは、非常に丁寧に正式の文書(平成2884日、泉南教委生第219号)で回答をいただきました。その回答文書では、元々の説明板は市(教育委員会社会教育課)により平成二年に作られ表示されたが、今のものはそれが古くなって平成二十三年に岡中区が作り直したもので、記載されている内容の根拠については、関係文書が残っていないために判明せず、これについては今後も調査していきたいというものでした。

一方「高城の宮といわれた」と初めて表示された、平成2年当時の村役員は皆さん亡くなられており、調査はこの時点で暗礁に乗り上げてしまいました。

(冒頭の画像は、市教委からの回答文書に添付されていた平成2年の表示板。)

(以上のとおり「高城の宮と言われた」という表示は、今から約35年も前に市が表示したものであり、古くなった表示板を更新した平成23年当時の関係者には、関わりが無いことを先におことわりしておきます。)

(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)

 

2024/09/17

泉南歴史トピックス2-②「高城の宮」の謎

 

泉南歴史トピックス2-②

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

問題の端緒、高城の宮??

問題の発端は、約8年前、インターネットで「岡中鎮守社」を取り上げているページを見ていると「古くは高城の宮と言われた」という記載を発見したことに始まります。びっくりして「高城の宮」というキーワードを組み合せて更に検索すると、当該ホームページだけでなく、十数個にわたるサイトで同様の表現で説明されていました。大楠には、毎年やってくる「アオバズク(ふくろうの一種)」がいることが知られており、新聞で取り上げられてかなり遠方からも写真撮影に来られるので、その方たちが自分のHPやブログで発信しはじめ、やがて旅行社のHPや泉南市役所のHPにまでも岡中神明神社は「高城の宮」と言われたと広がっていったのです。

私の家は先祖からこの地の百姓で、私自身岡中で生まれ育ち、仕事は大阪市内まで毎日出かけていましたが、今日まで一度も岡中を離れたことは無いのですが、岡中神明神社がむかし「高城の宮といわれた」とは、祖父母、父母、本家の叔父叔母、従姉、多くの親戚古老等、誰からも聞いたことが無かったことなのです。

まずは現場確認をと神社に行ってみると、神社正面の鳥居の右に平成二十三年作製の市教育委員会と区の連署による説明板があり、その文中に「古くは高城の宮と言われた」という記載がなされていました。「高城の宮」が「タカシロ」「タカギ」「タカジョウ」「コウギ」「コウジョウ」等何れの読みかも分からない中、すぐに親戚や古老の方たち、地区役員の先輩方等多くの方に聞いてみたのですが、どなたも全くご存知無い状況でした。それは皆さんが無関心からというより全く思ってもみない事柄故のことだと思います。それくらい地元の人間には思いもよらないことだったのです。

私は以前から郷土史に興味があり、地域の歴史や伝承に一応詳しいつもりではあったのですが、地元に全く伝承、口伝が残っていないというのもめずらしく、きっと新史料の発見でもあったのかと真相を調べることにしたのです。

(上下、2枚の画像は、約8年前にインターネット検索で出てきたページの例)

(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)



2024/09/15

清左のいいはなし 1 大師街道と苔仙師



清左のいいはなし 1

樽井から岡中までの大師街道

「岡中に過ぎたるものが二つあり・・・・・・」

 

200年以上前、岡中愛宕山の八十八か所巡りが開かれて、近隣の村々からも参拝する人が増えるなか、いつしかその道は「大師道」(だいしみち)と呼ばれるようになった。人々の信仰の対象となったその道も、都市化の進展で少しずつ景観は失われつつあるが今は私のリハビリ路でもある。遠くは阪南市の貝掛からも勧請の施主になっている家があることを思えば、当時の人々にとっては徒歩での往復の道のりも日頃の労働を癒す娯楽だったのだろうか。

もう340年前になるが、岡中の村では誰が言い出したのか、ある「落首」が村中に広がった。岡中に過ぎたるものが二つあり、鎮守の樟と周藤苔仙(すどうたいせん)」。苔仙先生は日本でも有数の書家であった。そして何時からか各展を退会、無所属となり、以降はいわゆる僧の書を超越して、自ら「墨跡」を目指すことにこだわり続けた人であった。NHKのスタジオ102の司会を務めた髙梨栄一氏は、苔仙師の展覧会に寄せて『・・・・しかし間もなくその真意は知れた。それは、「僧侶は単なる書家にとどまっていてはならない。僧としての情念・人格と、書家としての技が、ともに混然としてあるもの、つまり墨跡でなくてはならない」という、先生の決意の端的な表現だったのである。』と綴っている。

その墨跡、苔仙先生が亡くなられてから何年になるだろう。今はお孫さんと、そのチャーミングな奥さんが寺を守ってくれている。今年(2024)の秋から金熊寺男里線から大師道まで、複合的大型商業施設の出店工事が始まる予定と聞く。第二阪和国道より山側の景観も大きく変わると思われるが、苔仙師のことを思いながら泉南の歴史仲間とともに「大師街道」を歩いておきたいと思っている。(下の画像は、筆者が10年以上前に水彩をはじめた頃の絵。)







 

2024/09/14

清左の論座1 大切な課題を忘れていないか!


 

大切な課題を忘れていないか!

―自民総裁選、立民代表選は始まったが・・・・―

 2024.9/12(木)、自民党総裁選挙が告示されて、過去最多の9名が立候補の届け出をした。また、立憲民主党では少し前の9/7()に代表選が告示され、4名が立候補している。次の総選挙を通じて、おそらくはこの計13名の中から日本のトップ、内閣総理大臣が出現することになるのだろう。(もちろん政局の例外的展開はありうるが・・・・)

 13名それぞれの主張、政策を見るかぎり、私が日本あるいは世界について戦略的に重要と考える課題について、同様の問題意識で取り組もうとしている人は一人も見当たらない。もっと根源的なもので、今後の日本の国の形や世界のあり方について避けては通れないものはなにか。私は二つを挙げたい。

 一つ目は様々な政策の基盤となる「人口問題」である。日本人口の動向と将来社会の問題である。2008年の1億2800万人が最高で以降は減少に転じ、このままでは2100年には6000万人を下回ると見込まれている。今、仮に少子化が止まったとしても何十年も人口減少は続くというのが現実なのだ。当然、国や自治体、あるいは企業も人口減少、経済縮小を前提とした政策展開が必要なのだ。今日までのインフラ維持にしても、各種安全保障にしても「生産年齢人口の動き」を抜きには考えられないのだ。少子化対策はもちろん重要だが、必然的な人口減少の中で日本民族のみの国の形を維持するのは困難で、欧米のように多様な外国人を受け入れる「多民族共生社会」を前提として、国の形を描く必要に迫られているのに、この現実に触れる候補者はいない。

 二つ目は、一つ目とも関連するが「世代間差別、将来世代へのつけ回し」の問題である。年金問題、財政問題等々は言うまでもないが、中でも「地球温暖化」問題は人類の存亡がかかっているように思う。20178月、スエ―デンの15歳の少女、グレタ・トゥーンベリさんは、温暖化対策の決定に関わることができないのに未来を閉ざされてしまう若者や、これから生まれてくる子供たちを代表して、「気候のための学校ストライキ」を開始、スエーデン議会の前で呼びかけた。新しい日本のリーダーはこの課題に対して、まず国民の意志を強固に統合し、世界の先頭に立って働きかけるべきである。

(冒頭の画像は筆者の絵、「熊野ゴトビキ岩」。67年前、市の展覧会で発表。)

 

 

 

 

2024/09/09

泉南歴史トピックス2ー①「高城の宮」の謎


 

泉南歴史トピックス2-①

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

岡中神明神社とは

「鎮守の森は泣いている」とは、高名な宗教学者で哲学者の山折哲男先生が十年以上前に出版された本のタイトルですが、この小文は本が主題としているテーマとは直接は関係ありません。しかし、先生が本の副題とされている「日本人の心を突き動かすもの」を自分に当てはめてみると、それは今日まで私を育んでくれた「地域の豊かな自然」と「そこで暮らした祖先たちの霊」に対する畏敬や尊厳であり、そこに行けば何時も清々しい気持ちにさせてくれる「岡中神明神社、鎮守の森」にたどりつくのです。

今回のテーマの岡中神明神社とは、和泉国寺社覚(「和泉志」昭和32年、所収)にみえる日根郡信達荘中村字長前寺(中村は明治十七年に「岡中」に改称。現在、泉南市信達岡中。阪和道泉南インターを降りた村)にあった廃寺、浄土宗「法然寺」の鎮守社「天照大神社」とされています。寺院跡には小規模な墓地が残るのみで、神社は現在「岡中神明神社(祀神、天照大御神)」で地元岡中地区や泉南市では通称「鎮守さん」と呼ばれて親しまれ、大阪府の天然記念物でみどりの百選にも指定されている「大楠」の存在で知られる神社です。当神社は明治四十三年の神社合祀によって、字走り掛の「無格社王子神社」、字雨山の「意賀美神社」とともに、いったん金熊寺の信達神社に合祀されましたが、戦後、村(地区)から信達神社に要請し三社とも一括して岡中区に戻されています。市民の方や市職員の方まで誤解している人も多いのですが、「鎮守さん」は神社跡ではなく今も天照大神を祀る岡中神明神社なのです。

実は元々、この小文を書いたのは6年以上も前の、平成二十九年十一月のことで、私も参加していた「泉佐野の歴史と今を知る会会報」に投稿するためのものでした。ことの発端はその2年くらい前の平成二十七~八年のことです。会報に載せるための原稿には、「今日まで状況を見つめてきましたが、このまま放置しても進展は望めないと判断し、会報に小文を発表させていただき、泉州の歴史愛好家をはじめ、広く郷土を愛する市民の方々のご理解を賜りたく思った次第なのです。」としていました。

(表紙の水彩は、筆者が10年程前に描いて市の展覧会で発表させていただいたものです。)(つづく)