2024/12/27

泉南歴史トピックス3ー⑤ 続々、ゆきりの祖の史実性の検討



道光寺池
泉南歴史トピックス3ー⑤ 

続々、ゆきりの祖の史実性の検討

 さて、岸和田市史、泉南市史に「ゆきりの祖」伝承にかかる、辻井利左エ門と岡部長備に関連する記述がないことは先に述べたが、「泉南市史」には当該伝承に登場する「道光寺池」に関する中村(岡中)・幡代・馬場三か村の水利用について取り上げた記述がある。市史通史編、近世、第2章近世村落の構造と発展、「三村組合の水利用」(299~300P)である。
  
 当該記述に関連する史料は、市史史料編の399~400P「12  三村組合池争論に付口上書」(年未詳羊年六月 向井勘四郎氏文書)と「13  三村井落の儀に付口上書」(年未詳午年六月 根来宗次郎氏文書)である。

 ⑫はその年の水不足が原因で、三か村最上流の岡中村と幡代・馬場村の村民が道光寺池への放流をめぐって口論打鄭(こうろんこうちゃく=言い争い、叩き殴ること(筆者))した結果、岡中の庄屋・年寄が藩役人に訴え述べた口上書である。一方⑬は岡中・幡代・馬場三か村の庄屋・年寄が藩の水奉行に対し訴えた文書で、三か畑(葛、樟、童子)や金熊寺・六尾・牧野三か村の水利用の言い分に対し、自分たちの主張を訴えているものである。

市史通史編では、年未詳の両文書を翻刻、読解した上で岡中・幡代・馬場三か村の水利用について『少なくとも、中村、幡代村、馬場村は、三か村で水利用の組合を結成していたものの、相互の利害関係を内にはらむと同時に、上流六か村に対しては共同一致して対処していたことがわかるのである。』としめくくっている。


2024/12/25

泉南歴史トピックス3ー④  続、ゆきりの祖の史実性の検討

ゆきりの祖の碑(裏)

 泉南歴史トピックス3ー④

続、「ゆきりの祖」の史実性の検討

「ゆきりの祖」伝承の史実性の検証は、「義民小平次」伝承の史実性の問題に飛び火したかたちとなりましたが、小平次伝承の方は昭和10年に顕彰碑が建立され、同年に岡部子爵や斎藤元首相が来泉し新聞等で大々的に報道されて以降、様々な形で泉州の郷土史の中で語られ研究されてきました。

昭和53年には、当該伝承を題材にした中野光風作の現代小説「和泉国馬場村騒動 義民小平次」が書かれ、小説の中で主人公が史実を探求するという形で検討がなされました。

さらに昭和62年の「泉南市史通史編」や、昭和64(平成元)年の郷土史家、谷美光氏の「おのさと第3集、馬場村小平次考」では、市内各所に眠っていた「古文書」の翻刻、読解を通じて、実は主人公は「小平次」ではなく小平次の先祖の「久助」であり、事件があった時代も「宝暦」年間から大きく(約120年も)遡った「寛永」年間であったことが明らかにされたのです。この二つの歴史研究は今日では当たり前になっている「史料実証主義」に基ずく研究として高く評価できるものです。(久助が村人の名代として犠牲になったことは事実ですが、その原因とされる事実は「出入」としか分っていないのです。)

以上のように、ゆきりの祖伝承における「若い頃に尊敬した同時代人の小平次」という物語構成要素が、小平次伝承の研究結果と整合しないことになり、ゆきりの祖伝承の創作性を現す結果となってしまっているのです。(久助の子孫の小平次は宝暦当時に実在しています。)

なお、ゆきりの祖伝承に関係する辻井利左エ門と岡部長備に関係する事績を、「岸和田市史」と「泉南市史」でも調べてみましたが、私が調べたかぎりにおいて関連する記載はありませんでした。

2024/12/24

泉南歴史トピックス3ー③ ゆきりの祖の史実性 


 

泉南歴史トピックス3ー③

「ゆきりの祖」の史実性の検討

小平次を尊敬していた利左エ門

 阿形賢一氏の「泉州むかし話・ゆきりの祖」をベースに、当該伝承の史実性を検討する場合、まずは馬場村に別途存在する「義民小平次伝承」との関連から見ることが必要である。「泉州むかし話・ゆきりの祖」では、

利左エ門は若いころ父と同じ村役であった「小平次」を尊敬していて、医学の勉強のために江戸に旅立ったが、それが小平次との永の別れとなった。留守に起こった馬場の「藩の米蔵破り」の首謀者として処刑されたのである。とある。

・利左エ門が治療した岸和田藩主は岡部長備(ながとも)で、診療し回復させた褒美に岡中・幡代・馬場の三村は道光寺池に夏の土用の終わりの三日三晩の間に限り、金熊寺川のなめんじょ橋分水(ゆ)から道光寺池への放流が許されるようになり、この取り決めはそれ以降つい最近まで続いた。というものである。

さて岡部長備(おかべながとも)は実在の人物で、宝暦13年3月4日(1763.4.16)生、安永5(1776)年に藩主を継いで、享和3年11月5日(1803.12.18)に没しており、岸和田藩第8代藩主である。

一方、馬場の義民小平次顕彰会が昭和10年5月6日に極楽(密)寺境内に建立した「義民小平次の碑」には、小平次は宝暦2年(1752)に郷倉を破って米を窮民に分け与えたことで捕らえられ斬首刑に処せられた。享年48歳であったとされている。

小平次の死亡は宝暦2(1752)年であり、利左エ門は小平次を若い頃に憧れ、その後成人し医者になって、何時かはさだかではないが長備公(1763~1803)の病気を治療した。このように見ていくと、どうも利左エ門が長備公の治療をしたことは、歴史軸(時間軸)に照らし合わせてもあまり矛盾はなく、その点では一定の整合性があるように思える。(一例:小平次死亡時に利左エ門10歳として→61歳時に1803年、長備治世と一致)

ただしこれは「義民小平次の碑」に記されている事件の内容が、間違いなく史実であった場合という条件つきではあるが・・・・。






2024/11/29

清左の歴史深堀り 2 国市場にある神社の名称は


 清左の歴史深掘り  2   

根来街道筋、国市場にある神社の名称は

「岡前神社」の読みは?(オカマエ?、オカゼン?・・・・)

少し昔の昭和30年代、40年代頃、今の「市立くすのき幼稚園」の場所は「済生会泉南病院」だった。そしてその前、まだ病院が無かったころ、当時の地図に記された南海バスの停留所名は、「岡前(おかまえ)神社前」と表示されていた。

そして現在はというと、市販の地図やネットマップでは、「岡前神社」と漢字表記されているだけが多く、私が検索した中では唯一「マピオン」で「おかぜんじんじゃ」となっているのみである。さて、泉南市樽井2丁目5-2にある当該神社は何という名称の(何と読む)神社なのだろうか?。もちろん、当神社は今も「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」を祀る「岡前神社」なのだが・・・・・。かなり以前になるが、市に問い合わせても分からず図書館2階の郷土史本コーナーを調べても分からなかった。

近世から近代初期に、3000人規模の巨大な庄宮座・国市座がもたれた場所に近い関係から、信達庄13カ村、金熊権現宮の国市座との関わりを考えていたが、いくら調べてもこれとの関わりは無かった。そのようなことで、根来街道筋に今もたたずむ当社の謎を、私は何時か解きたいと思っていた。


何年か前、ある団体の街歩きで、私は泉佐野市の日根神社拝殿に至る境内社群の中に「岡前神社」を発見した。そして、社務所に駆け込んで頂いた「日根神社由緒略記」を見ると、「合祀社」として、明治41年の一村一社令によって日根野村の集落毎にあった五つの社が、今も日根神社内に本殿をもつ境内社として存在し、それぞれの神社ごとに現在も宮座行事を行っていることを知った。五つの社の中に『「岡前神社」、旧俵屋村の神社。祭神は素戔嗚命。』と記されているではないか。


私の長年の疑問は一挙に晴れた。若いころは「俵屋新田」に関する知識に乏しかったが、そのころは「国市場」は俵屋新田村であったことの知識があったためである。そして、(日根神社の)岡前神社の場所に戻ってみると、神社前の手水鉢に古くなって読みづらいものの「牛頭天王」とはっきりと記されているではないか。私の心の中は新しい発見をしたことの満足感で一杯だった。


その時は「岡前神社」の読みや呼び名までは分からなかったが、後日、日根神社の宮司さんに聞いたところ、詳しくは分からないが、古くからの俵屋の人たちは「オカザキさん」と呼んでいる人もいるとのことであった。「岡前=オカザキ」とは・・・・、私に更なる疑問解決の大きな課題が発生したのであった。

 明治維新による社名・祭神変更

さて、俵屋新田村について、詳しく解き明かしてくれた「新修泉佐野市史、通史編、近世」の57ページの記述では、「村民の紐帯としての社寺」として、「牛頭天王社は正保41647)年に古社を再興したとする。」と記され、俵屋新田村の草創期から存在していたことが分かる。また、国市場の岡前神社にも、「牛頭天王」を祀っている石の磐座(いわくら)があるため、おそらく俵屋の「牛頭天王社」を江戸時代に勧請したものと推定されるのである。

その後、明治維新による「神仏分離令」は京都祇園社を「八坂神社」とし、祭神を牛頭天王から「素戔嗚尊」に変更するなど、社名と祭神を変更することを広範に行った(例:大苗代、祇園牛頭天王社→一岡神社)、俵屋の牛頭天王社も「岡前神社」と変更され、分社たる国市場もそれにならったものと思われる。その後、俵屋の岡前神社は明治41年に日根神社に合祀されたが、同年に国市場は樽井村に編入されたため、神社合祀の対象からもれたものと思われる。少なくとも樽井にあった他社のように茅渟神社に合祀された記録は見当たらない。

そして重要なのは、俵屋の宮座は今も日根神社内の岡前神社で営まれており、国市場の岡前神社においても、座株をもつ人たちによって今も運営されていることである。(この点は地元の方から聴取り。)

うららかなある日、旧俵屋新田村の中心地である泉佐野市俵屋を探索した。そこには岡前神社(江戸時代の牛頭天王社)の跡地に「俵屋町会館」が建ち、その向かいに合祀後残った灯篭等が保存されている。今も泉州16カ村に飛び地を持った俵屋新田村のレガシーが残っており、付近の旧家の人らしい男性に「岡前神社」の読み方、呼び名を聞くと「オカザキ神社というんや」と返って来た。確かに「前」は「さき」とも読む。オカザキの謂われまでは分からないが、「オカザキジンジャ」に違いないのである。


(令和7年5月10日追記)

岡前神社の読みが「おかざきじんじゃ」であることを証明できる文献を発見しましたので追記いたします。

『ふるさと探訪』(「昭和60年3月発行」「原稿執筆者 溝端常次郎」「編集と発行 泉佐野市市長公室 広報広聴課」「印刷 (株)近畿出版印刷」)です。市広報に掲載したものを編集した冊子のようです。この冊子の50P、下段、「岡前神社と安養寺」のなかに「氏神は「岡前神社」と呼び、・・・・」とあり、岡前に(おかざき)とのルビが付されています。

今から40年前に発行された冊子ですが、私の気持的には「史料」と呼びたい一冊です。






2024/11/21

泉南歴史トピックス3ー②辻井利左エ門


泉南歴史トピックス3ー②

馬場、極楽蜜寺の二つめの碑「ゆきりの祖」

小平次を尊敬していた辻井利左エ門

 阿形賢一氏の「泉州むかし話 第2集」の「八、ゆきりの祖」を読んでいただいたものとして話を進めたい。私なりに要約すると、

  馬場は水利に恵まれない土地だったが、江戸時代中期に辻井利左エ門という医師がいた。遠方からの往診の依頼も絶えなかったので、金持ちたちはもっと町に出て活躍するよう勧めるほどだった。

  実は利左エ門には信念があった。若いころ父と同じ村役であった「小平次」の「村のために働く」という姿勢に感銘を受けて、同じように村のためになる立派な人になりたいという思いだった。

  やがて利左エ門は医学の勉強のために江戸に旅立ったが、それが小平次との永の別れとなった。留守に起こった馬場の農民一揆(藩の米蔵破り)の首謀者として処刑されたのである。学問を修めた利左エ門はこれを知り、小平次の遺志を継ぎ微力ながらも村の人たちの役に立とうと馬場の地で開業した。

  当時の岸和田藩主は岡部長備(ながとも)公だったが、この時相当労咳の病が重く、日に日に悪化していた。陰陽師の占いにより「日根郡信達馬場の利左エ門という名医に診せればよい」ということで、家臣が迎えに来て利左エ門が岡部の殿様の診療をした。

  殿さまの病気は薄皮を剝ぐように日に日に回復した。「辻井利左エ門とやら、此度は大儀、その方希望があれば何なりと申してみよ。必ず叶えて取らせようど」と上機嫌。利左エ門はならば村の水利に便宜を図ってくださるよう、村の窮状を切々と訴えるのであった。

  その結果、岡中(明治17年までは中村)・幡代・馬場の三村は道光寺池に夏の土用の終わりの三日三晩の間に限り、金熊寺川のなめり橋(誤り、「なめんじょ橋」)の分水(ゆ)から道光寺池への放流が許され、この年以来豊作が保証された。この取り決めはそれ以降つい最近まで続いていた。

  1972年の堀河ダム完成からは、ほとんどこの水(水利)問題は解決された。辻井利左エ門の功績を称えるために、馬場の人達は極楽密寺境内の義民小平次の碑の横に顕彰碑を建立したのであった。

こんなところだろうか。

私も地元の百姓の子孫として、実に興味深い伝承である。顕彰碑のことは知らなかったが、中学生か高校生の頃に馬場の友達からむかし話として聞いた覚えがある。次回からこの伝承を少し掘り下げてみたいと思う。


2024/11/17

泉南歴史トピックス3ー① 「ゆきりの祖」

 


泉南歴史トピックス3ー① 「ゆきりの祖」

馬場、極楽蜜寺の二つめの碑「ゆきりの祖」

「ゆきりの祖」なのか?

 泉南市馬場極楽蜜寺の義民小平次の碑の隣に、一回り小さい碑が立っている。小平次の話は、古くは「かりそめのひとりごと」のほか小説「和泉国馬場村騒動 義民小平次」、「泉南市史」その他多くの郷土史本に取り上げられて泉州の郷土史家や歴史好きには有名である。今回は隣の「ゆきりの祖」の碑にまつわる話を少し掘り下げてみたい。

まずは、小平次のように有名ではないので、話(伝承)の概要を紹介しておきたい。当該伝承は、阿形賢一氏の「泉州むかし話、関西新空港の地 第2集」に「八、ゆきりの祖」としてとりあげられている。この本は著者自身が記しているように確実な史実を取り上げたものではなく、むかしばなしや言い伝えにスポットをあてて、フィクションも交えて構成されている。まずはこれをご紹介することにしたい。

泉州むかし話第2集 ゆきりの祖 (「八、ゆきりの祖」は101ページから)



2024/10/31

清左の歴史深堀り 1 根来街道道標

 

清左の歴史深掘り 1

樽井の浜街道にある道標

「根来街道道標」なのか?

泉南市樽井2313番地先(現在の樽井5丁目32番)にある、所謂「根来街道道標」なるものは本当に浜街道と根来街道の分岐道標なのか?。私は、30年以上前からこのことに疑問を抱いていた。

この道標を初めて知ったのは市図書館で、泉南市教育委員会による平成2年3月発行『泉南市の石造物』をみて、現地を見学して以来である。この本自体には「根来街道道標」という表示や説明はなく、私の郷土史研究でお世話になっているとてもよい本である。問題は、本にも書かれているし現地でも判読できる

正面「すぐ大川かた 左紀州いセきごゑ」

右面「すぐ大坂」

左面「右大坂」

裏面「天保十巳亥年十月吉日」

という表示から、それの意味するところ、つまり根来街道の分岐案内表示であるということが理解できないのである。市は「根来街道の道標」としてパンフやリーフ、HPで案内しているがこれらを作成している人は本当に納得しているのだろうか。

まず、①岡田側から来た人が見て、正面記載の『すぐ大川かた』を「すぐに大川峠・加太方面」と理解しても「すぐ大川(男里川)の方」と理解しても、道自体が和歌山方面に向かっているので矛盾はない。

次に②『左紀州いセきごゑ』であるが、問題はこれである。通常、浜街道から井関越街道への分岐は、現在の南海尾崎駅、難波側踏切を海側に下って浪速酒造の横の道を海側に下った浜街道交差が起点である。それが何故、岡田側から来た人に「左へ曲がったら井関越えですよ」と案内しているのだろうか?。道標を建てた人の推奨なのか?。(もしそうなら御上は許すのだろうか)

次に、③右面に書かれた「すぐ大坂」であるが、この右面を見るのは、当時の埋め立て前の海岸(樽井漁港側)から来た人である。この人が急坂を上って少し左に曲がるが、これは三畑越え(根来街道)であり、国市場で信長街道を左に行ったり、大鳥居で紀州街道を左に行けば確かに大坂に行ける。

さらに、④左面の「右大坂」を見るのは逆に三畑越えから降りてきた人で、確かに右に曲がれば浜街道で岡田(大坂)方面である。現在は当該起点に至る(和歌山側)崖下の車道ができて複雑になってしまっているが、江戸時代は家も少なくもっとシンプルであっただろう。しかし、問題は②である。何故『左紀州いセきごゑ』なのだろうか?。長年疑問だったことが、今回の深掘り調査で判明し納得できた。腑に落ちたのである。それは・・・・・。

浜街道(孝子越街道)は新旧2本あった

少なくとも明治時代中期以降は、通常私たちが「浜街道」と考えている道が浜街道であり、泉南記要(明治42年版)で根来街道起点とされているのは、当該道標地点である。しかし何時頃までだったのかは判然としないが、これより古い江戸時代の浜街道が存在し、通常この古い方の道が「いわゆる浜街道」だったのである。それは、掲げている地図でマーキングしているように、岡田の陸側を通り、座頭池の海側を通って樽井に至っては根来街道と交差して南泉寺横から道祖神を経て男里に至り、男里川を渡って下出に至る道が古い「浜街道」なのである。(男里川を渡るのはこちらが容易かったのだろう。)

「根来街道道標」は、三畑越え(根来街道)を教えるというよりも、「樽井」から「男里」を経由して「下出」にいたる、江戸時代浜街道・井関越街道ルートを教える道標だったのである。そのように考えれば、③右面に書かれた「すぐ大坂」の表示も、国市場や大鳥居まで行かなくても南泉寺横の「いわゆる浜街道」との交差点を左に曲がれば「すぐ」に大坂(岡田、陸)方面にルートをとれるのである


道標建立当時の浜街道は?

道標が建てられたのは裏面にあるように「天保十巳亥年十月吉日」(1839)年であり、実はこの前年(天保9(1838)年)には幕命により全国規模で作成された、天保国絵図が完成しており、その一部である「和泉国絵図」には明確に古い方の「いわゆる浜街道」が記されている。

国立公文書館デジタルアーカイブ「天保国絵図-和泉国絵図」はこちらから。(拡大できます。)天保 和泉国絵図

建立当時の当該道は「いわゆる浜街道」よりもっと浜に近い生活新道だったのである。その意味において、当該道標を歴史的に正しく位置づけるならば「浜街道・井関越街道に至るための(後世に浜街道となる道上の)村中道標」というのが正しいのではないだろうか。明治になってから当該道が浜街道になり、あくまで結果として三畑越えを示す「根来街道道標」になってしまったのである。(天保和泉国絵図では三畑越えは紀州(熊野)街道の「大鳥居」が起点になっていることからも、当該道標の役割が分かるのです。)

最後に

実はこの「井関越街道」は、「樽井町」や「阪南町」にとっては、幕末の歴史を揺るがす大事件の舞台となった道なのだ。戊辰戦争の鳥羽伏見の戦い(慶応4(1868)年)で敗れた会津・桑名を中心とする幕軍敗残兵は、大坂を経て泉州から紀州徳川家に逃れるために、大挙して雄山越えや井関越えに向かったのである。「樽井町誌」や阪南町「町史こぼれ話」にはその時のリアルな史実が詳しく記されている。脇田家に来た桑名の武士たちも、この「道標」を見て井関越えに向かったのだろうか。

※追記(2024/11/4)

以上、考えていくと①正面記載の『すぐ大川かた』は「すぐ大川(男里川)の方」と理解する方が妥当と思われる。「大川峠・加太」だったら、「すぐ」とは表現しないだろうし、「(左)いわゆる浜街道」ルートを案内したと思われるからである。これらを考えるポイントは「新浜街道」における、男里川渡河の問題を歴史軸(時間軸)で見ていく中で解決していくと思われるのである。

 

 

2024/10/24

清左のいいはなし 3 東叡山寛永寺二世公海とは誰か 


清左のいいはなし 3 

東叡山寛永寺二世公海とはだれか

 冒頭の画像は、まぼろしの海岸寺寺宝の一つ「公海上人坐像」。

桜で有名な現在の東京上野「寛永寺」は、寛永二年(1625)天海大僧正により創立され、家康はじめ歴代将軍の帰依をうけて徳川家安泰と万民平安を祈願するため、江戸城の鬼門にあたる上野の台地に建立された天台宗の寺院である。

貝塚市半田の海岸寺山にあった「海岸寺」は、岸和田藩主岡部家初代宣勝が第三代将軍徳川家光をとむらうために建立した寺院で、東叡山寛永寺の末寺であり、江戸時代の樽井南泉寺は海岸寺の末寺だったのです。寛永寺二世公海は海岸寺の造営に尽力されたのです。

実は貝塚の「ぼっかんさん」、願泉寺四代了周以降、歴代住職は東叡山寛永寺で得度剃髪を受けています。そして寛永寺の二世公海(日光山ほか天台宗一宗を菅領)から「真教院」の院号と「金涼山」の山号を下賜されています。願泉寺は本願寺東西分派以降も両本願寺と本末関係を保ち、昭和の戦後まで両派に属すという、真宗寺院でも極めて特殊な歴史を有しますが、その願泉寺がなぜ天台宗の東叡山寛永寺の「御支配」寺院に位置付けられていたのでしょうか。   

それはこの「公海大僧正」こそ、願泉寺初代卜半斉と同じく、新川家出身の女で、生涯にわたって本願寺教如の寵愛を受けた「おふく」(教寿院如祐)の外孫、幼名「熊丸」(花山院忠長に嫁いだ教如とおふくの娘の子)であることは、泉南市民歴史倶楽部の貝塚寺内の例会に参加された方は覚えておられるにちがいありません。

各地の史跡をめぐり、その歴史を深堀りしていくと、意外なところで歴史と歴史が繋がっていきます。これも史跡探訪の楽しみの一つなのです。







2024/10/20

清左の豆知識 2 岸和田藩七人庄屋

 

泉南歴史豆知識 2

岸和田藩七人庄屋

岸和田藩の郷中支配

近世になってからの領主支配は、いわゆる「村請制」が採用され、年貢・諸役の納入や法令遵守を村単位で請け負わせました。庄屋(村政運営の中心)・年寄(庄屋を補佐)・百姓代(庄屋、年寄の監視役)とよばれた村役人が置かれ村政を司ったのです。庄屋は、願・届・公事訴訟のために岸和田城等に出向くことが多く、けっこう多忙だったといわれています。各藩では各村々と役所の間に大庄屋(いくつかの村を統括。法令伝達、願書・届出の奥印、争論の仲裁等)を置くことがありましたが、岸和田藩もこれに相当する制度をとりました。

松井(松平)氏時代 代官庄屋制(1619(元和5)~1640(寛永17)年)

まだまだ中世の色合いを残す近世初期でしたので、「八人之代官庄屋」が置かれました。(それぞれが、大きな権益をもっていた村々を管轄したようです。)

郷士代官 熊取村   中左近、 中(降井)左衛門尉

     瓦屋村   新川三郎衛門

代官庄屋 岸和田村  久左衛門(岸)

     土生村   荘左衛門(小門)

     脇浜村   久左衛門(佐々木)

筆頭庄屋 佐野村   十郎太夫(藤田)、 久左衛門(吉田)

  岡部氏の支配 七人庄屋制

入部した1640(寛文17)年の高札に掲げられた「定」には、「8人の代官庄屋制度は今年限りで廃止する」と記されていますが、本当は何時からかは疑わしいのですが、これにかわって採用されたのが「七人庄屋」制です。一般の庄屋は村から藩に願い出て許可される手順になっていましたが、七人庄屋は「御上」から仰せつけられる存在で、世襲による任命でした。

熊取村   中左近、 中(降井)左太夫

佐野村   藤田十郎太夫、 吉田久左衛門

岸和田村  岸六右衛門

樽井村   脇田右馬太郎

畠中村   要源太夫※  (※1789年までは市場村 小川信左エ門)

 岸和田市史等、各市市史はここまでの記述になっているのですが、貝塚市が発行している「かいづか文化財だより「テンプス」40号」では、上記6家の次に信達市場村小川信左エ門を掲げ、1789(寛政元)年からこれに代わって畠中村要源太夫となったことを紹介しています。

 さらに、七人庄屋に準じるものとして、江戸時代後期に4名の「七人格」が設けられ、藩内に重大な問題が生じたときには協議に参加し、七人衆の補佐・代役として郷会所への参加を求められました。信達市場村の角谷彦兵衛もその一人であったとされています。



2024/10/18

清左の豆知識 1 根来赤井坊少納言

 

泉南歴史豆知識 1

根来赤井坊少納言

戦国時代の根来寺

戦国時代の根来寺には、多くの坊院、坊舎がありましたが、真義真言宗の修行場・学問所である学侶(寺に所属する僧侶)の坊院と、周辺の土豪、地侍、惣村の有力者などが寄進して寺内に建立した行人方坊院の2種類の坊舎がありました。

元々、行人方坊舎は学侶を世話する寺男等の詰め所という建前だったらしいですが、戦国期の行人方坊舎の実態は本来の行人の定義から外れて、周辺土豪の一族子弟が門主(住持、坊院主)となり、一族郎党等を集めて寺内に惣分(惣の軍隊)を形成して力を蓄えたといわれています。

いわゆる「根来衆」と呼ばれる根来寺戦闘集団は、根来寺に数百もあったといわれる行人方坊院の惣分のことなのです。

熊取町の中家は一族の子弟を根来寺の「成真院」の僧としますが、戦国時代は「根来大納言坊」を名乗り、根来寺敗北からは家康に仕えて関ケ原、大坂陣に参戦して和泉国(天領)代官となり、江戸時代は所謂「根来同心」を統括した旗本根来家3450石(滋賀県近江八幡市安土町東老蘇に陣屋跡あり)として幕末までつづきました。


根来閼伽井坊少納言

閼伽井坊(赤井坊)も行人方坊院の一つで、戦国時代初期からいろいろな文献にその名が登場します。例えば日根野荘では1504年に九条政基が帰京する際には代官職となっています。秀吉の根来攻めから江戸初期の頃(中世末~近世初め)の話は石橋直之の「泉州志」(1700年)の記述で有名です。また、熊取の中盛彬の「かりそめのひとりごと」でも馬場村の子孫のことが記述されており、子孫の方々は現在も馬場にお住まいになっています。









2024/10/02

清左のいいはなしー2 2024「新川塾」

 


清左のいい話②

2024年度「新川塾」で、119日(土)に私のライフワーク「富屋食堂は砂川にもあった」をお話します。

 

今年も「泉佐野ふるさと町屋館」恒例の「新川塾」が、10/6()12/7()までの原則土・日曜日午後2時から3時30分まで、11回連続シリーズで行われます。

今年は、主催者の特定非営利活動法人、泉州佐野にぎわい本舗からの要請で、私が語り継いでいる佐野飛行場の特攻隊物語、「富屋食堂は砂川にもあった」をお話させていただけることになりました。

昨年、泉南市の埋文センターでお話した際は、「花房旅館」の地元、砂川や泉南市内での話を中心におはなししましたが、今回は165振武隊が出撃したあとの6月以降、上之郷における話も折りまでて、生き残り隊員のご家族から託された写真(史料)をフル活用してお話したいと思います。よろしかったらご参加ください。

と き 令和6年11月9日(土)午後2時~3時30分まで

ところ 泉佐野市本町5-29  TEL072-469-5673

申込み 電話同上、FAX072-479-6789







2024/10/01

泉南歴史トピックス2ー⑬ 高城の宮の謎

 

泉南歴史トピックス2―⑬

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

最後に、高城の読みは? 二つの可能性

 

やはり最後に、この究極の謎問題に触れないわけにはいかないと思います。私が今のところ一番の「読みの比定」候補と考えているのは、以上のように「高城神社」の社名が登場してきたと思われる経過から考えて、本シリーズ2-③でも記したように、高城神社の主祀神が神武天皇の兄である彦五瀬命であり、彦五瀬命の「雄たけび」が地名(雄信達)由来となっていることを考えれば、同じく神武東征伝承に登場する「菟田の高城(たかぎ)」から、「たかぎのみや」と呼ばれたと比定したいと思っています。

  しかし、その後重要な点に気づいたのです。それは、貝塚市に「高城」(たかじょう)が存在したという事実です。「日本城郭全集9」(人物往来社1967)には「高城(たかじょう)、貝塚市三ツ松。三ツ松に古城跡がある、天文から天正(15321591)の頃、紀州根来寺の衆徒が築いて拠った城砦という。」とあります。泉南市馬場は、泉州の郷土史家に広く知られる「紀州根来、閼伽井(あかいぼう)少納言」の本貫地なのです。そして、高城神社は馬場の「殿垣外」(殿の屋敷に繋がった土地)に存在し、そしてそこに今も関係者の方もお住まいになっています(分家とのことです)。また、先に紹介した馬場の字名地図には「殿垣内」を囲むように、点々と「城ノ前」という字がいくつも存在しています。江戸時代初期に赤井坊少納言とともに馬場に帰農した人たちの過去のレガシーによって、この名が復活してきた可能性も否定できないのです。

貝塚市教育委員会でも「高城」(たかじょう)の詳しいことは分かっていませんので、読者からの関係情報をお願いする次第です。そして、貝塚市の高城(たかじょう)と根来閼伽井坊少納言の関係がもう少し具体的になれば、私の読みの比定を「たかじょうのみや」と訂正する可能性を保留して、本シリーズを終了いたします。

(下の画像は、中盛彬の「かりそめのひとりごと」の「信達庄馬場村の辻右衛門」と石橋直之の「泉州志」の紹介。)(※資料として切り貼りした、泉州志、石橋直之の出身地が間違っています。正しくは「下出(しもいで)の文人」です。)

(このシリーズは2-①からお読みください。)(おわり)






泉南歴史トピックス2ー⑫ 高城の宮の謎


 

泉南歴史トピックス2―⑫

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

明治維新による宗教政策、神社政策

 

明治維新後、全国の神社は国家管理のもとにおかれ、社名や祭神が変更された例は全国各地で広範にあります。記紀神話や延喜式等によって権威付けられた神々に信仰対象を転換する作業も広範に行われたのです。個別に史料で確認できた内容ではありませんが、馬場の産土社も祭神の中心に「彦五瀬命」をすえて「高城神社」という社名となり村社として位置づけられたのだと思われます。その後、神社政策の変更で整理統合化が進み、明治41年には信達神社に合祀されてしまいました。わずか340年足らずの社名が一般の地元民にはあまり定着しないまま合祀となり、その後の時代の村民にも十分継承されなかったのではないかと思われます。

岡中の「意賀美神社」という神社名もこれと同様に、村の人々には全く定着していなかったと思われます。少なくとも私は「雨山の神さん」(一般村民にはこう呼ばれていた。)のことは聞いていますが、神社名が「意賀美神社」とは祖父母、父母、本家の叔父叔母等から聞いたこともないし、村の古老たちからも聞いたことはありません。むしろ江戸時代からの言い伝えで、雨乞い神事の時に岸和田藩の役人が馬を繋いだ「馬つなぎの三本松」の伝承の方が有名です。私がたまたま歴史、民俗好きで、雨、水の神様は龍神で「高龗」(タカオカミ)、よくある神社名が「意賀美神社」という知識があるから違和感がないだけで、村の人たちは「雨山の神さん」と思っているのと同じことだろうと思うのです。一方、泉佐野市上之郷の「意賀美神社」も江戸時代は全く別名でしたが、明治以降ずっと続いているため、今では有名な神社になっています。

(なお、余談ですが「雨山の神さん」は合祀後の今でも岡中、幡代、山中新家、自然田等の付近村民に崇敬されており、山中新家が近年新調した「やぐら」には「雨山の雨乞い神事」がきっちり彫り込まれています。)

(上の画像は、絵を描き始めたころの練習のスケッチ。)

(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)

 


2024/09/30

泉南歴史トピックス2ー⑪ 高城の宮の謎


 

泉南歴史トピックス2―⑪

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

「高城神社」がなぜ地元民に定着し、認識されていなかったのか

 

これを考えるためにはいい資料があります。泉南歴史トピックス1-③でも紹介した「和泉国寺社覚」(天保十四癸卯年)です。天保14年(1843)、江戸時代末期ですが、これに搭載されている神社(当時そのような呼称は無かった、いわゆる社(やしろ))は、中村(岡中村)では法然寺鎮守と思われる「天照大神社」、林昌寺の「愛宕山権現社」、雨山の「雨明神」、それと「王子庭、瓦小社」であり、馬場村では安養寺末社と思われる「三宝荒神社」、「住吉明神社」、「小社」と、あえて言えば「国市場除地平地」(金熊権現祭礼の国市座が行われた場所のこと)でしかありません。(中村法然寺も馬場村安養寺も近世初期に断絶した寺で、この件はまた別機会にふれることとします。)

つまり、江戸時代の末でも、馬場の「高城神社」という神社名は無かったのであり、同じく中村でも「意賀美神社」という神社名は無かったのです。それぞれの基になる社はあったのでしょうが、これらは明治維新後に新政府の宗教政策、神社政策によって名称がつけられた神社であると考えられるのです。これには「泉南市史」の「寺と社」に関する記述(450454頁)が参考になるので、ぜひ一度ご覧いただきたいと思います。

(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)

 

泉南歴史トピックス2ー⑩ 高城の宮の謎


泉南歴史トピックス2―⑩

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

本件問題が残したもの、そして高城の宮の謎は?

 

令和6年の秋、今なぜこの問題を話題として、私のブログで発信しようとするのか、それには二つの理由があります。

私が平成28年に資料としてまとめた文書に「今後の対応案」や「今後への教訓」として書いた諸点が本質的には進展、解決していないと思うからです。やむを得ないことではありますが、いまでも検索すれば旅行社のHPなどに出てきますし、図書館にある案内人の会の冊子(加除式)では今も「岡中鎮守の杜に「高城の宮」があった」となったままです(R6/8月現在)。市教委としては表示を訂正したことの発表すらしていないのですから当然のことでしょう。大事なのは同様の事態を引き起こさない様にする努力とその仕組みづくりです。

 それと全く次元が異なる話ですが、私なりの研究の到達点を示しておきたいという思いからです。文献史料からは明確に「高城神社」となっている馬場産土社が、実地調査時に地元の元宮司家子孫のMさんをはじめ他の人達からも、「村の宮さん」「遥拝所」と呼ばれていたとしか聞けなかったのはなぜなのか。もっと踏み込んで言うと、当時の一般的な馬場の方達が「高城神社」という社名をどれほど認識していたのかという問題です。次でこのことを考えてみたいと思います。

(冒頭の絵は、筆者が5年くらい前の市の展覧会で発表したもの)

(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)


2024/09/29

泉南歴史トピックス2ー⑨ 高城の宮の謎


 

泉南歴史トピックス2-⑨

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

その後の経過 (2)

その後も歴史好きの私は、泉南市民歴史倶楽部での活動をはじめとして、歴史関係の取組みを中心に忙しい日々を過ごしていました。「高城の宮」のことは何時も頭の片隅にあったのですが、錯誤問題も役所は放置したままで、「高城」の読みの問題も進展はなく、さらに約4年の日々が経過してしまっていたのです。

 しかし、事態は意外な展開をみせました。令和4年10月の祭礼が行われている日、鎮守社のある老人集会所(祭りの詰め所)に居た知り合いから電話があって、私にすぐ来てくれというのです。先輩のY氏が私に詰め所に来てもらえと言っているとのこと。すぐにとんでいくと、Mさんという女性の方が馬場の「やぐら」について信達神社まで行った帰りに、岡中神明神社に立ち寄り説明板を見て老人集会所に来たというのです。私は全く初対面でしたが、話を聞きだしてすぐに「馬場産土社の元宮司家のMさん」の関係者だと分かりました。ご本人は平成289月に私が現地聴き取り調査を行ったM氏の娘さんでした。お父様は2年前に亡くなられたとのこと。

 私はそれを聞き、M氏ご存命のうちに「説明板」問題を解決できなかったことを詫びましたが、私とMさんの当時のやり取りを具体的にはよくご存じない様子でした。調査結果やその後の経過を簡単にお話して、馬場のご自宅まで車でお送りした事をおぼえています。

その後、Mさんの娘さんは市教委に対して直接働きかけられ、本件問題の調査と善処方を促したことにより急に市教委は動き出しました。そして、「高城の宮といわれた」という説明板での情報発信を保留するどころか、岡中地区に「高城の宮」という表示を「天照大神宮社」に書き換えてくれるよう依頼し、翌年春(R5/春)には表示は書き換えられました。(別シリーズである、泉南歴史トピックス1-③でも示した、「元禄四年未二月十八日寺社御改帳控」に現岡中鎮守社のことも載っており、「天照大神宮社」と記載されているからだろうと思われます。)

(冒頭の画像は「葛城古道」で、数年前の市の展覧会で発表させていただきました。)

(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)

 


2024/09/28

泉南歴史トピックス2―⑧ 高城の宮の謎 

 


泉南歴史トピックス2-⑧

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

その後の経過 (1)

本シリーズの冒頭、2―①で『実は元々、この小文を書いたのは6年以上も前の、平成二十九年十一月のことで、「泉佐野の歴史と今を知る会会報」に投稿するためのものでした』と書きましたが、区切りをつけた一年後においても、市教委は「説明板」による情報発信の保留や訂正等何らのアクションも起こしませんでした。原稿で『今日まで状況を見つめてきましたが、このまま放置しても進展は望めないと判断し・・・』と書いたのはそのためでした。しかし、結果としてこの小文が「会報」に載ることはありませんでした。私が掲載依頼しなかったからです。

それは二つの理由によるものでした。一つは、郷土史研究紙である「会報」に市教委の怠慢を載せることへのためらいからです。郷土史研究についての内容ではあっても、これを伝えることが目的と受け取られることを危惧したのです。二つ目の理由は、岡中か馬場かは別として「高城の宮」「高城神社」の読みが判明していないこと、言い換えれば、なぜ馬場の産土社が「高城神社」なのか、「高城の宮」と言われたのかの問題が自分の中で解決していなかったからでした。

(上の画像は、馬場のM氏に宛てた礼状の控え)

(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)

 


2024/09/25

泉南歴史トピックス2ー⑦ 高城の宮の謎


泉南歴史トピックス2-⑦

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

資料の作成と地区役員を通じた市への上申

以上が本件についての調査結果ですが、私はこれを整理して資料としてまとめ、その最後に「今後の対応案」と「今後への教訓」と思われる点を意見として付しました。

本件は、岡中鎮守社問題としてだけでなく、旧馬場産土社にもかかわる事態であることから早々の対応が必要と考え、平成二十八年九月に区長をはじめとする地区三役に説明し、資料をもう一部用意して市教委に話を上げて対応してもらいたい旨依頼しました。当時の地区三役は、私もよく知っている方々で、私の話にびっくりされましたが理解を示してくれました。

私は、郷土史家として本件に関する一連の調査を行って、一区民の役割として地区役員に事態を説明し、市に対応方を要望してもらえることになったので、この件に一応の区切りをつけて平成2810月に、協力いただいた馬場のM氏に報告をかねた礼状を出しました。なおその年の十一月には区長から「市教委には話を上げてある」との報告を聞いています。

(冒頭の絵は筆者が数年前に市の展覧会に出した水彩)

(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)

 


泉南歴史トピックス2ー⑥ 高城の宮の謎

 


泉南歴史トピックス2-⑥

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

―調査に基づく結論

 以上、大阪府全誌での発見以降、別文献による反面調査や小字特定、並びに現地調査と聴き取り調査を行った結果、岡中神明神社に市教委と区が表示している「古くは高城の宮といわれた」との記載は、馬場産土社(うぶすなしゃ)と岡中鎮守社(ちんじゅしゃ)を取り違えた錯誤であると思われます。両社とも明治時代にいったん信達神社に合祀されており、馬場の社名が「高城神社」であったとの明確な文献史料が複数存在することから、以上の蓋然性は極めて高いと思われます。さらに、実地調査と聴き取り調査により

 ・「昔はこんもりとした森だった」こと、

 ・「大部分の木が過去に切られている」こと、

 ・「大楠が今も残っている」こと、

 ・「旧宮地の一部に老人集会所が存在する」こと、

 等々、岡中の鎮守社と全くよく似たシチュエーションにあり、地元の事をよく知らない関係者が、何らかの伝聞に対し、十分な反面調査をしなかった場合、両社を取り違えてしまうことは十分有り得ることです。私としては、「錯誤の蓋然性が高い」というレベル以上であると思っています。それは、説明板にある「昔は土塀に囲まれ」という点です。実は、私の本家は鎮守社のすぐ近くにあり、従姉は現在九十歳を超えていますが、もの心ついた頃から今日まで、鎮守社前の墓は土塀で囲まれてはいたが、鎮守社が土塀に囲まれていた事実はないと断言しています。一方、馬場での聴き取りでは、多くの付近住民から「宮さんの杜は土塀に囲まれていた」という説明を受けているのです。

(冒頭の画像は、筆者が水彩をはじめた10年くらい前の絵です。)

(このシリーズは2-①からお読みください。)(つづく)


 


2024/09/23

清左の論座 1の追録(大切な課題を忘れていないか!)

 清左の論座 1の追録(大切な課題を忘れていないか!)


 私は、清左の論座 1で「大切な課題を忘れていないか!」というタイトルで本ブログで意見を投稿しましたが、読者から「人口問題」として『2008年の1億2800万人が最高で以降は減少に転じ、このままでは2100年には6000万人を下回ると見込まれている。今、仮に少子化が止まったとしても何十年も人口減少は続くというのが現実なのだ。』と書いたが、それはいささかドラスティックに過ぎるのではないか。というご意見をいただきました。

 この数字をどう認識するかは、もちろん人によって様々で自由ですが、念のため私が参考にしたのは「日本の人口動向とこれからの社会」(国立社会保障・人口問題研究所編、東京大学出版会)であることをお知らせいたします。



泉南歴史トピックス2ー⑤ 高城の宮の謎

 

泉南歴史トピックス2-⑤

鎮守の森は泣いて(いた)、「高城の宮」の謎

―小字地図による所在地の特定と実地調査-

  泉南市の郷土史研究は、多くの民間人の先学達によるすばらしい蓄積があります。私が最も驚くのは、小字を網羅した小字地図資料が存在することです。それを見ると馬場の高城神社があった「殿垣外(とのかいと)」が現在のどこなのかをほぼ正確に特定することができます。また、殿垣内の東側に「宮ノ前」、北側に「宮ノ下」、南側に「宮ノ上」という字名もみえます。小字の特定に基づき、現在の住宅地図に置き換えてその範囲を特定することもでき、結果として現在の「馬場老人集会所」の付近一帯のかなり広い範囲が「字殿垣外」に該当することが判明したのです。

平成289月の天気の良い日に、大字馬場、字殿垣内付近の実地調査と現地聴き取り調査を実施しました。

―現地聴き取り調査の概要-

  元、馬場産土社宮司の子孫、M氏婦人への聴き取り(後刻ご主人も同席)

・「この辺一帯は、「殿垣外」で、自宅の前は道を挟んで「宮の前」。昔この辺一帯は村の宮さんがあったところ。宮さんは土塀で囲まれており、鬱蒼とした森だった。」

・「当家の先祖はその社の宮司だった。今は社地の面影はないが、自分の祖母は神社関係の付き合いから、長滝「蟻通神社」から嫁いで来た人である。」

・「古文書もたくさんあったが、蔵を潰す際にみな処分した。屋敷内には大きな鳥居の石が残っていたが、家を新築する際に業者に引き取ってもらった。」

・屋敷内の家の左右と奥は畑であり、道から見て右側の畑の中に楠の大木がある。

「以前は3倍の大きさがあったが、危ないので幹も枝も切ってもらった。しかしまた切り口から枝が伸びて大きくなってくる。昔は、樽井、馬場、岡中の三大楠といわれ、もっと大木だった。」

・ご主人と奥さんに神社の昔の呼び名を聞いたが「村の宮さん」とのこと。文献により馬場の当地にあった神社が「高城神社」であったことを伝え、「高城」の読みを聴くも判明せず。

・同社の祠跡が近くにあるとのことでご案内いただいた。

 (M氏宅から祠跡が家のガレージ裏にあるK氏宅までは約百㍍近く離れている。)

  馬場の信達神社氏子総代K氏の婦人に聴き取り(後刻ご主人も同席)

・「この辺一帯は土塀に囲まれた元々宮地だった。老人集会所やこの前の道も昔はなく宮地の中だった。一帯は林と竹藪が輻輳したこんもりとした森で、今でも楠は何とか残っている。他の種類の木もたくさんあったが、昔にみな切ってしまったと聞いている。今は全て住宅が建っている。」

・K氏邸の右側に氏のガレージがあり、横の家との間に狭い通り道がある。そこを通ってガレージの裏手に入ると、旧の村社の灯篭や玉垣が今もあり、少し高くなっている石段の上に祠の場所だった跡も残っていた。(K氏が土地を買う際に、祠跡は残したらしい)

・K氏は現在(平成28年当時)、馬場地区の信達神社氏子総代を務めておられ、「岡中や幡代は戦後、村に分祀したが馬場は戻しておらず、馬場の「やぐら」は今でも毎年、金熊寺に宮上がりしている。」とのこと。

・K氏と奥さんに、神社の昔の呼び名を聴くも、「村の宮さん」で合祀後は「遥拝所」とも呼ばれていたとのこと。なお、当地にあった神社が文献では「高城神社」であったことを伝え、「高城」の読みを聴くも判明せず。

  K氏夫人の友人(ご婦人)

・合祀後、金熊寺の信達神社が遠いので、約五十年位前までは、ここに宮参りをした子供もいたと聞いている。呼び名は「村の宮さん」「遥拝所」と。「高城」の読みを聴くも分からないとのこと。

という結果でした。

(このシリーズは2ー①からお読みください。)(つづく)